それも一局

 この原稿が掲載されるのは、受験生応援号だという。わたしはこの三月で定年退職になるので、これから京都大学に入ろうとする(つまりは未来にあふれた)若い人々に対して、これから京都大学を出ていこうとする(つまりは未来がまったくない)老人が、いったいどういう前向きな言葉をかけられるのか、疑問に思わなくもないが、わたしがみなさんと同じくらいの年齢だったときのことを思い出しながら書いてみようと思う。
 わたしは昭和四十六年に京都大学の理学部に入学した。京都に生まれ育ったわたしのような人間にとって、キョーダイはごく身近な存在であり、中学生のときに担任の先生が京大出だったおかげで、楽友会館という京大構内にある建物でコンパをしたことがあるほど、敷居の高い場所ではなかった。そういうわけで、近所の小学校に行くのと同じくらいに、特に迷うこともなく京大に入ったわけだ。
 理学部で過ごした四年間は、当時の多くの学生がそうであったように、ほとんど授業に出なかった。実は、京大に入るとすぐに将棋部に入部し、そちらのボックスに入りびたりになってしまったのである。その頃の将棋部は八回生もごろごろいたほどで、大学生活を無為に過ごす人間が多いのを不思議に思わなくなってしまった。ボックスで一日中将棋を指しては、夕方になると飯を食いに行き、それからまた麻雀とトランプという日々の繰り返しで四年間があっというまに過ぎた。
 今から考えると、まったく何をしていたのかと思うが、あのときもっと勉強しておけばよかったと後悔することはあまりない。なぜかと言えば、授業に出ないと圧倒的に自由な時間があり、その暇を利用して小説を読み、映画を観た。今、理学部ではなく文学部で教えているのは、そのときの経験が遠因になっているからである。今のわたしは、大学生時代のあの無為に過ごした時間という財産を食いつぶして生きているような気がしなくもない。
 将棋を本気で指していたのは三十歳ごろまでで、それ以降は大会に出たりすることもなくなってしまった。今では俗にいう「観る将」というやつで、ネットでライヴ中継されるタイトル戦などを観戦するだけである。チェスも、世界中で行われているトーナメントのライヴ中継を観戦する。
 そうやってチェスを観戦していて気づいたのは、プレーヤーたちが感想を述べるときに決まって使う言葉がいくつかあることだった。そのうちのひとつが、”It’s a game.”という言い方。英語があまりしゃべれないロシアの選手でも、この言葉を口にする。この「イッツス・ア・ゲーム」という言い方、どういう意味かわかるだろうか。
 これは将棋語に翻訳すると、「それも一局」という意味になるだろう。対局が終わった後の感想戦で、誰かに「ここでこう指せばどうだったんですか」と指摘されたときに使う言い方だ。この表現には、豊かな含みがある。まず、別の手を指摘した人の考えを否定しないこと。「たしかにその手もありましたね」というわけだ。しかし、それだけではない。その別の手の成否は、指してみないとわからない。形勢が互角に見える手はいくつかある。だが、チェスでも将棋でも、指せる手は一手しかない。わたしはこの手を指した。別の手を指せばどうなったかは神のみぞ知るだが、とにかくわたしはこの手を指した。別の手を指さなかった。それだけが絶対的な事実で、わたしはこの手を指したことを後悔していない。だから「イッツス・ア・ゲーム」。「それも一局」。
 そういうわけで、わたしは大学生時代の四年間を無為に過ごしたことを後悔していない。あのときもっと勉強していればどうだったか。「イッツス・ア・ゲーム」。「それも一局」。 受験生のみなさんには、この言葉を贈りたい。もし首尾よく合格したとしても、それも一局。もし残念ながら合格しなかったとしても、それも一局。べつにそこで勝ち負けが決まるわけではないからだ。それを言うなら、チェスや将棋と違って、人生というゲームには勝ち負けはない。どこまで行っても「イッツス・ア・ゲーム」。「それも一局」。そう思って、気楽にがんばってください。

(初出:2018.2 京都大学新聞)

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