推理小説の愉しみ

 推理小説(ミステリ)は、大衆小説の一ジャンルとして。最も広く親しまれているものである。その推理小説の読み方と愉しみ方を、具体的な実例を通して考えてみたい。
 推理小説の代表的な例となると、「ミステリの女王」とも呼ばれる、アガサ・クリスティーの作品を選ぶことに異論は出ないだろう。世界中のミステリ愛読者から今なお愛されつづけている、クリスティーの数多い作品群の中から、ここでは有名な『オリエント急行の殺人』(一九三四)を取り上げて考察することにする。古典的探偵小説に属するこの名作は、雪で動かなくなった国際寝台列車の中で殺人事件が発生し、世界各国からやってきた乗客の中に混じっていた名探偵エルキュール・ポアロがその謎を解くという筋書きである。この講義では真相を完全に明らかにすることはしないが、かなり内容に立ち入った話をするので、必ず『オリエント急行の殺人』を読み終わってから講義を読んでほしい
 なお、講義では、クリスティーの小説技巧を細かく検討していくと同時に、古典的探偵小説を中心とする、英米推理小説史の基本的な事項についても解説する。また、推理小説に限らない、小説一般にも広く応用できる読み方を提供するようにこころがけたい。各項の柱に掲げたのは、『オリエント急行の殺人』(中村能三訳、早川書房クリスティー文庫)からの引用で、カッコ内にそのページ数を記した。

●世界じゅうの人が今夜にかぎって旅行に出られるようでございますよ!(38)

 『オリエント急行の殺人』で、容疑者として出てくるのは、アメリカ人三人、イギリス人三人、ハンガリー人二人、そしてイタリア人、ドイツ人、スウェーデン人、ロシア人がそれぞれ一人の、計十二人である。車掌が言うように、世界じゅうから集めてきたようなこの登場人物たちは、この作品に華やかな彩りを添えている。
 まずここで注目してほしいのは、「十二」人という具体的な数字だ。それじたい特に意味がなさそうなこの数字は、死体に残されていた傷が「十二」ヵ所あったという符合によって、にわかに意味ありげな様相を帯びてくる。そして「証言」と題された第二部になると、その第一章から第十二章までが十二人の容疑者一人一人の証言で構成されていて、ますますこの「十二」という数字が読者の意識に植え付けられる。しかもそれだけではない。「十二」は、実は謎を解く重要な手がかりにもなっていたことが、ポアロの推理をたどるとわかるのだ。ここでそれを具体的に説明することはできないが、ある謎々を出題することによってその代わりとしておこう。「十二」という数字が題名に出てくる有名な映画は何だっただろうか? そこから連想してみてほしい。なお、その映画を撮った監督のシドニー・ルメットは、まったく不思議な偶然で、アルバート・フィニーが名探偵ポアロ役を演じた『オリエント急行殺人事件』(一九七四)の監督でもあることを付け加えておこう。
 『オリエント急行』の他にも、たとえば『そして誰もいなくなった』(一九三九)は、原題のもう一つのタイトルであるTen Little Indiansからもわかるとおり、「十」という数字を作品の基調にしている。そして『ABC殺人事件』(一九三六)は、やはりタイトルを見れば一目瞭然で、アルファベットを基調にしている。このように、クリスティーの作品(さらには一般的に古典的探偵小説)では、数字やアルファベットといった、それじたい意味を持たないはずの記号が作品全体の構成や内容を決定してしまうといった事態が往々にして起こる。そうした形式的な制約は、いわば探偵小説を生み出す装置として機能しているのである。
 さて次に、これだけ多くの国籍の人間を登場人物として取り揃えた理由は何なのか、見ておくことにしよう。その理由としてまず考えられるのは、大勢の登場人物たちを書き分けるのに、国籍による類型化というものが最も簡便な人物造形を与えてくれるからである。それはあまりにも類型的であるがゆえに、クリスティーは人種的偏見の持ち主だという批判がしばしばなされるほどである。たとえば、喧嘩でかっとなれば人を刺しかねない血の気の多いイタリア人とか、敵を十二回も短剣で刺したりすることはけっしてない高潔なイギリス人といった、紋切り型がそうだ。
 しかし、こうした多国籍の設定をクリスティーが最もうまく利用しているのは、そこで使われるさまざまな言語である。ここでは言葉が謎を解く手がかりになる。たとえば、ポアロは被害者が殺害される直前に、車掌にフランス語で話しかける声を耳にするが、実は被害者はフランス語がしゃべれなかった。また、容疑者の一人であるイギリス人が、かつてアメリカで生活していた経験を持っているとポアロが見抜いたのは、彼女がつい口にしたアメリカ英語の言葉がきっかけだった。さらには、ロシア語のキリル文字を使ったトリックもある。
 最後に、見知らぬ他人ばかりがある一つの場所に集まって、しばらくそこでともに時間を過ごし、運命を交差させることになるという物語の形式について。これは大衆小説によく見られるもので、「グランド・ホテル」物などと呼ばれたりすることもある(今風に言えば、「有頂天ホテル」物と言ったほうがわかりやすいのかもしれないが)。この形式を、クリスティーは『そして誰もいなくなった』でも使用していて、そこでは互いに見知らぬ十人の人間が孤島に集められるところから物語は始まる。こういう物語の形式は、『オリエント急行の殺人』出版の少し前にあたる一九三二年に公開された映画『グランド・ホテル』(グレタ・ガルボが出ていたのでご記憶だろう)以降、いわゆる「グランド・ホテル」物と呼ばれるようになった。これを鉄道旅行に応用したイギリス映画『ローマ急行』も一九三三年に出ている。言い換えれば、そのような時代背景から、『オリエント急行の殺人』を読む読者は、これがグランド・ホテル物に属するものだと思い込んでしまう。ところが、ここで注意。『オリエント急行の殺人』では、ああこれは「グランド・ホテル」物だなと読者が思い込んでしまうところが、実はクリスティーが読者に対して仕掛けた罠なのである。読者はこの形式が要請している暗黙の前提条件を、つい無意識的に呑み込んでしまう。しかし、クリスティーはその前提条件を破っているのだ。これが読者の思い込みを逆手にとった、クリスティーの巧妙というかずるいところなのである。

●わたしが求めているのは心理的なもので、指紋や煙草の灰ではないのです。(110)

 こう言うのは、クリスティーが作り出した名探偵で、ミス・マープルに並んで有名なエルキュール・ポアロである。卵形の頭をした、「小さな灰色の脳細胞」の持ち主であるベルギー人として、名探偵ポアロの名前を知らないような探偵小説愛読者はおそらくいない。
 引用箇所で、ポアロは探偵として彼が推理に用いる方法を説明している。ここで作者クリスティーが暗に意識しているのは、コナン・ドイルが作り出した、おそらく探偵小説史上で最も名高い名探偵であるシャーロック・ホームズだ。なぜなら、ホームズが初めて登場する栄光ある第一作「緋色の研究」(一八八七)でも述べられているように、ホームズが「各種煙草の灰の鑑別について」という論文を著したことがあるのは、ホームズ物の愛読者なら誰でも知っている事実なのだから。
 ホームズは推理に際して、現場に残されている物理的な手がかりを必要とする。ところがそれに対して、ポアロが主に依拠するのは、そうした物証ではなく、容疑者たちの人間そのもの、とりわけ彼らが口にする言葉である。ポアロは発話者の人間性や心理をのぞかせている言葉を手がかりにして、それを解釈する。ある意味で、ポアロはフロイト以降に出現した探偵だと言ってもいい。
 それでは、実際にポアロが言葉を解釈する仕方はどのようなものだったか。それを例証するのが、次のようなエピソードである。登場人物の一人、アンドレニ伯爵夫人は、子供の頃に誰か家庭教師に教わらなかったかと質問されて、「ミス・フリーボディ」という女性の名前を口にする。それが嘘だということをポアロはただちに見破る。ポアロの推理はこうだ。彼が予想していた、公爵夫人の家庭教師をしたことがある女性は、オリエント急行の乗客の一人であるメアリー・デベナムという女性である。その事実を隠そうとした公爵夫人はとっさに別の名前を考えようとして、最初に思い浮かんだのがフリーボディという名前だった。「ご存じないかもしれませんが、ロンドンに、最近までデベナム・アンド・フリーボディという店があったのですよ」
 ポアロが言うように、かつてデベナム・アンド・フリーボディという男性服を中心に扱った店があり、これは現在のデベナム百貨店の前身である。この言葉の連想ゲームは、たしかに発表当時のイギリス人読者ならなるほどと膝を打ったかもしれない。しかし、わたしたちがここで思い出すのは、アメリカで探偵小説の先駆となる作品群を書いた、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」(一八四一)に出てくるこんなエピソードだ。語り手が探偵役のC・オーギュスト・デュパンとともに殺人事件の現場へ向かう道の途中、いまきみが考えていたのはシャンティリという男のことだろう、とデュパンに図星をさされて驚く。そこでデュパンは、語り手が曲がり角で果物屋とぶつかり、その果物屋からシャンティリへと連想が及んだ道筋を説明してみせる。ポアロの推理は、デュパンのような「風が吹けば桶屋がもうかる」式の突拍子もない連想の連鎖ではないにせよ、基本にそれと同質のものであることは明らかだ。すなわち、言葉を換えれば、ポアロは探偵としてホームズではなくデュパンの系譜に属するのである。アメリカ作家のポーがデュパンをフランス人に設定したことと、イギリス作家のクリスティーがポアロをベルギー人に設定したことのあいだにも、おそらく類縁関係が見て取れるだろう。

●事件そのものがまるで夢のような話ですよ。(266)

 ポアロと一緒にこの事件をなんとか解決しようとする、国際寝台車会社の重役ムシュー・ブークはこう嘆いてみせる。ここで「夢のような話」とは、原文ではfantasyである。死体に残された十二ヵ所の傷跡は、性格がばらばらで、かなりの力を必要とするものもあれば、弱々しいものもあった。さらには一ヵ所だけ、左利きの人間にしかつけられないような傷もあった。その証拠から判断すると、犯人は「非常に力のある男であって、弱い男であって、女であって、右利きであって、左利きの人物」ということになる。この途方もない犯人像は、ムシュー・ブークにとって幻想的(ファンタスティック)としか思えない。しかし言うまでもなく、『オリエント急行の殺人』は幻想小説ではなく、探偵小説である。ポアロはこう言う。「外見は不可能に見えても、それはかならず可能なのです」
 古典的探偵小説に必要不可欠な要素は、「謎」と「手がかり」、そして「解決」である。謎は主に殺人事件に関わり、犯人は誰かという問いが一般的で、そのような形式の作品を「フーダニット」(whodunit) と呼ぶ。そして、謎を解決へと導くのが「探偵」の役割だ。
 このジャンルが深化していく過程で、作品は推理パズルとなる傾向を強めていった。その結果、読者(とりわけ探偵小説愛好家)の興味をそそるために、もっと魅力的な謎、もっと途方もない解決を提供することが探偵小説作家の関心事となった。クリスティーの『オリエント急行の殺人』や『そして誰もいなくなった』は、そうした傾向の極致を形成している。『オリエント急行の殺人』で最後に明らかになる真相は、おそらくクリスティーの後につづく探偵小説作家が二度と使えないたぐいの、奇想天外なものだ。クリスティーがこの作品を一種のファンタジー(それも喜劇的なファンタジー)として読んでほしいと思っていたことを、わたしは疑わない。
 もちろん、このようにありえなさを強調していけば、物語が現実から遊離していくのは避けられない。殺人は血なまぐさい現実性をぬぐいさられて、ただの設定になる。登場人物は深みのないフラットなキャラクター、ただのゲームの駒になる。そうした探偵小説のあり方に疑問を持つ作家たちが出てきてもおかしくはない。次項では、そのような古典的探偵小説に対抗する動きについて述べる。

●どうやら禁酒法の賛成者じゃないようですな、ムシュー・ハードマン。(284)

 オリエント急行に乗り合わせた客のなかで、セールスマンを装っていたハードマンというアメリカ人は、実はマックネル探偵社に勤める私立探偵だった。このハードマンという男の造形には、クリスティーのいわば探偵小説批評とでも呼ぶべきものが、滑稽なかたちで読み取れる。
 一九二〇年代から三〇年代にかけて、イギリスでは古典的探偵小説が俗にいう黄金時代を迎えていたが、その一方で、アメリカでは「ハードボイルド」と呼ばれることになる探偵小説の新しい流派が勃興しつつあった。その流れを作った作家は、ダシール・ハメットである。
 ハメットはピンカートンという探偵社で私立探偵をした経験を持っている。その経験を武器にして、彼は探偵稼業で食っているコンチネンタル・オプという男を主人公にした長篇第一作『血の収穫』(一九二九)を発表し、さらには『マルタの鷹』(一九三〇)で私立探偵サム・スペードを登場させた。パズルまたはゲームの色彩が濃厚な古典的探偵小説とは異なり、ハメットの探偵小説では、当時の不安を抱えた社会の中で、探偵は行動せざるをえない。ハメットが描く探偵は、ポアロのようにじっと座って黙考したりはしないのである。
 小鷹信光氏の労作『私のハードボイルド——固茹で玉子の戦後史』(早川書房)によれば、非情さを表す「ハードボイルド」(hard-boiled)という言葉がそうした新しい流派に関する評言として初めて用いられたのは、一九二九年に評論家ハーバート・アズベリーが『血の収穫』を批評した文章の中だったという。それがあちこちで引用され、ハメットの人気が高まるとともに「ハードボイルド」という言葉もだんだん流通するようになっていたのが、クリスティーが『オリエント急行の殺人』を発表した一九三四年あたりの状況だった。クリスティーが「ハードボイルド」という言葉を執筆時点で知っていたのかどうかはわからないが、「ハードマン」という名前の付け方には、アメリカ流のこわもての探偵をからかっているそぶりが見られることはたしかだ。
 クリスティーは人物造形に際して、典型的なタイプだと思える人間を戯画化する傾向があり、ハードマンもその例に漏れない。彼は派手な服装をして、チューインガムを噛み、旅行用手提鞄の中には酒をごっそり隠して持ち込んでいる。しかし、「ハード」なのはどうやら外見だけのようで、実は女性に弱いことをポアロに見抜かれている。ハメットの『マルタの鷹』では、探偵のサム・スペードが、危険な女だと本能的に知りつつも、事件の依頼人である美女ブリジッド・オショーネシーに惹かれていくという、メロドラマの部分も読みどころの一つだが、もしかするとクリスティーはそのあたりを揶揄しているのかもしれない。いずれにせよ、クリスティーはアメリカにおける「ハードボイルド」をこうして笑いものにするだけの余裕があったのである。
 最後に、禁酒法への言及についてふれておこう。禁酒法は酒の製造販売や輸出入を禁じる法律として、一九二〇年にアメリカで施行されたものだが、いわゆるジャズ・エイジと呼ばれる華やかな風潮の中で、人々が禁酒運動にいそしむわけはなく、裏の世界で酒は飲まれつづけた。『オリエント急行の殺人』の中でも、ムシュー・ブーク氏が「もぐり酒場」(speakeasy) という当時のアメリカ語を話に持ち出している。ビリー・ワイルダーが撮った、マリリン・モンロー主演の『お熱いのがお好き』(一九五九)は、禁酒法時代を舞台にした映画で、冒頭にこの「もぐり酒場」の場面があったことをご記憶の方も多いだろう。そして、『お熱いのがお好き』でも描かれていたように、裏の世界で酒の密造・密売によって富を築いたのはマフィアと呼ばれる集団暴力組織だった。『オリエント急行の殺人』で殺害されたラチェット氏という金持ちの男が実はアメリカ人ではなく、本名はカセッティというイタリア人で、ギャング組織にも関与し、かつて誘拐事件を首謀した犯罪者だったという設定は、こうした時代背景をもとにしている。つまり、クリスティーの小説は、時代を描いた一種の風俗小説として読める側面を備えているのだ。
 
●なに、ちょっとしたことなのですが。(274)

 ポアロが推理のよりどころにするのは、つねに「ちょっとしたこと」、すなわち細部である。それはけっして取るに足りない細部ではなく、謎の解決へとつながる重要な意味を秘めている。
 クリスティーの作品は、異様なほどに読みやすい。センテンスはおおむね短く、使われている語彙も豊富ではない。登場人物は型どおりだし、物語の運びも単調である。そのために、読者はどんどんページを繰っていける。必然的に、読者は小説の細部に充分な注意を払わない方向へと誘導されている。それだからこそ、ポアロが「ちょっとしたこと」を指摘するとき、読者はたいていそこを読み落としていたことに気づく。読みやすさこそが、クリスティーのトリックなのだ。
 『オリエント急行の殺人』でわたしがおもしろいと思った細部の例として、乗客名簿に書かれていたイギリス人のハリスという男のエピソードを紹介しておこう。ポアロは寝台列車に座席を取ろうとして、満席だという説明を聞きどうしたものかと心配するが、乗客名簿にはあってもまだ現れていない客が一人いるという車掌の話にこう答える。「ディケンズの小説に出てきますな。ムシュー・ハリス、その人は来ませんよ」
 ポアロが言っているのは、イギリス人にとってなじみの深い作家であるチャールズ・ディケンズの長篇『マーティン・チャズルウィット』(一八四三ー四四)である。そこに登場するセアラ・ギャンプという老婦人は、女一人で生きていく孤独感を紛らわせるために、ハリス夫人という架空の友達を作り出し、しきりに彼女の話をする。つまりポアロは、名簿に載っているハリスという男はそのハリス夫人と同じで存在しないも同然だから、きっと来ないと決めつけているのである。
 このハリスのエピソードは、物語の後になって二度と持ち出されることはない。それでは、物語の筋に関係しない、純粋に不必要な細部かというと、必ずしもそうとは言い切れない。なぜなら、『オリエント急行の殺人』ではハリスの他にも「現実には存在しない人物」が何度か現れたり言及されたりするからである。つまり、ハリスのエピソードは、そのようなモチーフを伏線的に暗示していると読むことも可能なのだ。
 クリスティーの作品は、細部の重要さと、それを読み取る愉しみを、読者にわかりやすいかたちで教えてくれる。わたしがクリスティーを題材に選んだ大きな理由はそこにある。たしかに、短い時間でクリスティーを一冊読み終えてしまい、また次の作品に手を伸ばすのもいいかもしれない。大衆娯楽小説とは、そうやって消費されるものなのだから。しかし、一度読んでしまったものを、もう一度再読してみると、あちらこちらにばらまかれている細部がもっと目に入るようになる。書かれている言葉の一つ一つが、最初に読んだときよりもっと豊かな意味を含んだものとして見えてくる。そういう体験を積んでいくうちに、読者はもっと愉しく小説が読めるようになるはずだ。それはクリスティーの作品に限らず、どんな小説についてもきっと当てはまるだろう。

(初出:2008.3 放送大学教材『文学の愉しみ』)

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