レディーファースト考

この話。ちょっと男女二元っぽい書き方になってしまうのは申し訳ないんですがよろしければ。

たまたまネットで見たのが、某カリスマホスト経営者の方が「日本はレディーファーストがないからホストがある。外国ならできない。」みたいなことを言ってたらしく。

ホストか。ある意味ではシス男性でボーッと生きてきた私には「ねじれの位置」みたいに考えることもなかった世界だな。

ホストの「男性」が客の「女性」に対する。かっこ良かったり、楽しく話したりして、ドキドキして楽しい特別で非日常の時間を過ごす。まあ、楽しいという人も多いだろうな。

世間で言われるところの欧米の文化「レディーファースト」が日本では常ではないから魅力だと言うことなんだよね。

もう少し「レディーファースト」って何か考えてみる。


例えばさ、同姓であったとしたら「レディーファースト」的な行為はしないってわけでもないわけでしょ?先にドアを開けるとか、席を譲るとか、荷物を持つとか、そういう「気遣い」ってすることもあるじゃない。

でも「気遣い」にも色々あると思うんですよ。例えば二人でご飯を食べた後のお金の支払い。二人の意志の共有の中で二人が納得する方法でやることが「気遣い」なんじゃないですかね。もし相手が「自分の頼んだ分は自分で出したい」と思うならそれを優先するっていうのも「気遣い」となりえる。

その二人の間の共有が万全なコミュニケーションでできない場合には、社会的な共有に基づくこともあるでしょうね。その社会的な共有に、ひょっとしたらこれまでの日本では「男が払うべき」っていうのがあったかもしれない。

共有に自然に乗れている二人なら合致して、簡単に「気遣い」は成立しますよね。払わせてほしいと思う人と払ってほしいと思う人。割り勘にしたいと思う人と割り勘にしたいと思う人。自分の分だけ出したい人と自分の分だけ出したい人。

あるいはどちらかが譲歩することもあるかもしれない。払わせてほしいと思う人と割り勘にしたい人がいたときに、全部払いたかった人が割り勘を了承したり、割り勘にしたい人が相手に全部払ってもらったり。それも「気遣い」。

荷物を持っている人がいる。重いから持ってほしい人と重そうだから持たせてほしい人。重さには関係なく持ってほしい人と持たせてほしい人。これなら自然に「気遣える」だろうし、重さには関係なく自分のものは持ちたい人と持たせてほしい人ならどちらかの譲歩で「気遣い」が生じるんでしょうね。

あるいは、場合によっては「気遣い」をしないという「気遣い」が成り立つ関係もあるのかもしれない。


二人が「男性」と「女性」なら。

少なくとも二人の関係の性別がなんであったとしても、「気遣い」はあっていい。

でも、単純な「気遣いって大事だよねー」っていうのとまた違う「レディーファースト」の位相を捉えるなら、そこには「男」と「女」を別ものとして捉える「頑丈な性差の意識」があるんだと思う。それには身体的なものもあるだろうし、社会的なものもあるだろう。

それは合理的であったり、合理的でなかったりするかもしれない。あるいは「気遣い」として適切であったり、不適切であったりするかもしれない。その判断も社会的な文脈を要する。

ジェンダー構造の変革を目指す過程にあると思われる今、そうした判断は曖昧さを増したと思う。「男性」と「女性」という変数を入れて100%こうすべきという式は使えなくなっていく。「男性」も「女性」も一人として合同ではない。

その式が絶対に使えることに安心があるのもまた事実かもしれない。変革の過程の中でその事実とどう折り合えるのか。


「日本にはレディーファーストの文化がない」っていう言説は、こういう言い方にもできるかもしれない。「日本の男性は、気遣いが十分でない傾向にある。」私がシスヘテ男性として生きてきた中で、少し感じるところだ。それは、気づかないうちに構造的上位者の位置を占めることになったり(→埋め込まれた男尊女卑的な意識に繋がる)、自己の感情に鈍感たることを要求されたり、ホモソーシャルのコミュニケーションはパターン化されていて個人を蔑ろにしていたり、様々に説明できる。(じゃあ女性はどうなのか、ということまでは分からない。女性の体験に任せたい。)

言ってはなんだが、「気遣い」は技術でもあると思う。その技術の巧拙に差があって、プロフェッショナルたる「気遣い」できる人たち、すなわちホストはこれからも魅力的であり続けるだろう。まあそもそも外見上の魅力も磨かれているわけだし。

でも、もしもう少し男性がしなやかに「気遣い」できるようになり、それでもホストが魅力的であり続けるのなら、先の理論は少しは揺らぐだろう。その時、ホストはどんな進化をしているのだろうか。


「レディーファースト」が「気遣い」の領域にあるのか、あるいはそうではない領域にあるのか、ということは、これからのジェンダー構造の変革の中で問い直されていくだろう。

ただ、私個人としては、日本人男性にはジェンダー構造についての認識を深めた上で、誰が相手でも「気遣い」ができるようになれば、かなりの進歩なんじゃないかなと思う。

それが難しいということは、あまりにも頭が痛いのだけど、まずは自分自身「気遣い」の心を忘れないことから始めたい。ハードルが低くて申し訳ないが。


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