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『BOYS』を読む(4)

この記事は一昨日の記事の続きであり、レイチェル・ギーザの『BOYS』という本の第三章について述べるものです。

一昨日の記事がこちら。

この第三章のタイトルは「男の子らしさという名の牢獄 親密性の希求とホモフォビアの壁」である。

筆者は、「男性同士の絆」とホモセクシュアリティの変遷を追いながら、現在に続くような男らしさの概念の構築を探る。その概念では、「男性同士の絆」はホモソーシャルの一線を踏み越えてはならず、これにより男性同士が親密さを追求することは難しくなった。

現代では孤独の健康被害について語られることも多いが、現在の男性(男性性に従う男性)は親密な関係性を得難い状況にある。弱みを見せることも、ホモセクシュアルな関係も、男性性に相反する。だから、男性性を守る範囲内でしか、男性は親密さを確保できない。

弱みを男性相手に見せることは私(priv)も苦手だ。それが男性性に反するから苦手なのかは分からない。自分が苦手であるというより、相手が困ってしまうのではないか、という意識があるような気もするが。


しかし、そうした親密性を構築する能力を男性が喪失しているとは限らない。少なくともアメリカの男の子は男の子同士での関係性を大事にすることができるようだ。それも、思春期前半と見なされる14~15歳の男の子は、女の子より男の子との友達関係を重視しているらしい(身体の変化について同じ経験をする相手を重視するという考察もある)。

私(priv)の感覚ではこれはちょっと意外。自分がそれくらいの年齢のとき、周りの男子がどうだったかよく覚えていない。ただ、そのころの同級生なんて大概恋愛のことばっかり考えていたような気がする。日本だと変わってしまうのかな?

アメリカでもそうした親密性は思春期後半に薄れていき、親密性への警戒と恋愛意識が強まるらしい。この頃には抑うつや孤立感を経験する男子が増えるらしい。


女性の方がコミュニケーションに長けていて、男性の方が苦手であるというステレオタイプに疑問を持つ考えもある。ある心理学者によると、男の子が銃を真似て遊ぶのは、それが「男の子らしい」ことを知っているからで、その後もさまざまな「男の子らしい」遊びを通して男の子同士での関係を求めるのだという。

つまり、男の子もその「男の子らしさ」は、社会的な条件付けと周囲からの期待を受けていて、どの程度それを実行するかは個人の好みで決めるという。男の子のグループにだけ関わる子もいるし、女の子のグループにも関わる子もいる。

私も子供の頃からある程度男の子らしいことはしていたと思う。SASUKEや筋肉番付が好きだったからか遊具で遊ぶのが好きだった。野球も好きだったからキャッチボールとかもよくした。でもその一方で女の子ともある程度は関わっていたような。幼稚園時代に一番仲良かったのは女の子だった記憶がある。うちの親は遊びの面ではそんなにジェンダーによっていなかったと思う。そういえば特撮ものには一切興味がなかったな。


最後に、男の子の問題は、男の子がそのステレオタイプを超えることを認めない社会に由来する、という考え方をのせている(これはすべてのジェンダー集団に応用できる)。これはまさに『BOYS』が一貫して主張する、従来の男性性を疑ってこなかった社会へのカウンターだ。そして、逆にそもそも親密さを築く力を持つ彼らをアシストすることができれば良いということもこのことから言える。

男性に対して、ステレオタイプを越えた考えを示してくれたことに、私は感激した。男性は諦められやすいから。私の好きなフェミニズムが、とうとう自分の身に語られた、と感じた。

以上が第三章です。とても優しい章でした。

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