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大学にあふれるキラキラした何か

そろそろ次の学期が始まる。どんな授業を取るか、他学部も含めて一通り確認するのが今。果して授業開始はいつになるだろうか。

私の興味の範囲はまあまあ狭いので、自分の学部の授業だけでは取りたい授業は埋まらない。一方で自分の学部の授業は一定数取らなければならないから、行きたい授業より優先して行きたくない授業を取らざるを得ないことが多々ある。単位制度はイマイチ相性が悪い。

授業の興味以外に、私が重要にしている要素がいくつかある。授業そのものの興味がイマイチでも、教授の相性が良ければ行くこともある。1限とか6限とかは、しんどいので取らない。特に1限、満員電車には絶対に乗りたくない。

あとは、グループワークの存在。同世代の人間に苦手意識があり、コミュニケーションに難があり、相手との熱量の差(相手が低い場合も高い場合も)に敏感な自分は、グループワークが行われる授業は精神衛生上絶対に行かない。


精神衛生上絶対に行かないもう一つの場合は、授業中にやたら周りの生徒がうるさい授業。どういうわけか、毎年生徒が入れ替わっているはずなのに教室がうるさくなる授業というのは存在する。端的に言って、教授が舐められているのだろう。

そういう授業は興味があっても行く気が失せる。私は喧騒も苦手だし、同世代も苦手だから、同世代の作り出す喧騒に耐えられるはずがない。なんならうるさくなくても、私は他の生徒の動向を見ることすら鬱陶しく感じる。そういうわけで私は必ず最前列の席(かつ比較的端)の位置に陣取る。よく授業への関心度を高く見積もられて、教授に目をつけられたりする。


うるさいあの人たち、言い換えれば「陽キャ」を見かける度に、「陰キャ」の私は辛くなる。それは、ただうるさいことそのものへのストレスだけじゃない。私は、「陽キャ」たちが羨ましいとも思っている。

何が羨ましいか。それは、自分たちの存在を堂々とアピールし騒ぎ立てる厚かましさであったり、流行や若者同士が作り出す「ノリ」への順応能力であったり、軽々しさと同時に併せ持つ様々な社会的に評価される能力であったり、おそらく順調に歩んでいくであろうその人生そのものであったり。

「授業も黙って受けられねーのか」と私が心のなかで毒づいているとき、私は同時に「陽キャ」たちがおおよそ無能ではないことに気付いている。私と同じ大学に通っている人々の多くが、社会への適合を十分にしており、私よりも順調な人生を歩むのだろうと思っている。

私が散々嫌っている人々は、一方でキラキラしているように見える。まさに陽の光のようであり、それは私の陰を一層映えさせる。


また新しい学期が始まったら、キャンパスはキラキラに溢れることだろう。大学近くの飲食店、居酒屋は毎日キラキラで埋まり、私は近寄れなくなることだろう。

人生の上位ランカーたちを勝手に敵視し、ルサンチマンをぶちかます。そんな新学期の始まりが遅れることは、今だけは安堵のもとになっている。

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