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アジールもしくはアサイラム

「アジール(アサイラム)」とは、古代ギリシャにおける神殿や、中世日本における寺社など、世俗的な権力が及ばない、聖なる地域のことであり、宗教的な権力などを背景とした保護避難所でもある。駆け込み寺、縁切り寺などがイメージしやすいだろうか。


かつて私の学校生活にはアジールが不可欠であった。

小学校の時には、校舎の各階に一つはある読書コーナーがそれに当たったと思う。休み時間などが少しあるときには、教養系の本をよく読んでいた。

中学校の時には、校舎の片端にある階段がそれに当たった。長い校舎のうち、一片にある階段は生徒の出入りには繋がっていない、袋小路的な存在であった。滅多にそこを使う生徒はいなかったから、休み時間にはほぼそこにいた。

高校の時には、部活の部室がそれに当たった。部室には鍵が掛かっていたけど、朝の時間に鍵を借りることができれば一日鍵を持つこともできたので、昼休み時間を始めとして、かなりの長時間をそこで過ごした。


私は友達がそれほど多くなかった。全くいないわけでもなかったけど話すことも対して無かったし、休み時間には周りのクラスメイトたちがうるさかったので、それを避けることの方が先決だった。多分小学校中学年くらいからはずっとそんな感じだったと思う。

小学校の時には読書、高校の時には部活関係のことをしていたからまだ端から見ても有意義だったと思う。それに対して中学のときは中々だった。学校の階段にエンターテイメントが用意されているわけではない。どうしてたかといえば、親から借りていたそんなに新しくない電子辞書をなんとなく眺めるか、本当にただボーッとしているか、それだけだった。

たまにクラスの人間が来る。用事があって使う人もいて、そういう人は大抵自分がいることに驚く。時々それなりの好奇心から様子を見に来る人もいて、本当に何もしていないことを確認して、ちょっとばかりしゃべって帰っていく。そこから何かが起こるわけでもない。

ボーッとすることにも意義があって、小学校中学年くらいからの苦闘を経て、その頃にはそれなりにキャラを作って過ごしていたし、クラスで起こる様々な出来事に気をすり減らしていたから、自分の回復のためにはそういう時間は必須だった。そういえばこの頃から、特に意味もなく人の少ないトイレに行くことも増えた。それも自分の回復のためでもあった。


さて、時は下って大学時代。これがしんどかった。

大学には、中々気の休まる場所がない。自分の大学はそこそこに生徒数が多いこともあって、人がいなくて、居心地が良くて、気を抜いていられる場所があまりない。

サークルにも一時期入っていたが、会室を持っていないところだったし、ゼミにも結局定着しなかった。せめて居心地がいいと思えるグループで使える部屋があれば、高校時代のように気を抜けたのだろうけど。

基本的には、自分の数少ない友人と一緒にご飯を食べるとき以外はリラックスすることは難しく、至るところの人、人、人に心をすり減らしながら耐えるしかない。

もちろん、通学時間も人だらけの空間は中々しんどい。朝の満員の電車は基本的に避けられるように日程を組んでいるが、帰りの時間には混んでしまう。

ということで、昨年の途中から始めたのが、大学から数駅分歩いて満員電車をやり過ごす方法。40分くらい歩いて、その間に考え事をしたり音楽を聴いたりして自分の空間を作り出しながら帰る。これはそこそこ効果があったと思う。精神的にも肉体的にも。


正直な話、自分にとって一番落ち着くのは、ありがたいことに自宅なのだが、そこを一歩出たとしても、心安らぐ場所はやはり欲しい。

これから先は、どこにどれほどアジールを作れるかということがおそらく大事なのだろう。ただでさえ擦りきれるように生きている私には、アジールが不可欠である。

noteは、どうだろうね。




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