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「小説 名娼明月」 第55話:怪しき馬士(まご)

 金吾は病気の疲れに堪えかねて、今宿の駅(しゅく)まで馬に乗ることとした。馬士(まご)は、眼丸く鼻太き、五十余りの老爺(じい)である。白髪交りの髪を蓬々(ぼうぼう)と伸ぶに任せ、皮膚の色赤黒くして、歯は乱杙(らんぐい)である。馬を叱りながら啣(くわ)え煙管(きせる)をして行くうちに、馬上の金吾に話しかけ、

 「お客様のお国はいずれで、いづこに行かれまするか?」

 と尋ねた。
  金吾は、もとより聊(いささ)かの懸念もないから、

 「自分は本来、備中玉島の者であるけれども、九州に下ってから、もう三年余りになる。今度は博多から肥前の唐津まで行く途中である」

 と語れば、馬士は何と思ったか、急に振り返り、金吾の顔をじろりと見た。そうして、目が底気味悪く光ったと見る間に、馬士は、また急に、晴れ晴れしい顔と声を作って、

 「何のためのお旅でござりまするか?」

 と訊いた。
 金吾は別に、この馬士を疑うわけではなかったが、ただ、ちょっとした用事があるからとばかりで、他は語らなかった。
 馬は進んで、幾代の松原を過ぎ、長垂山にかかった。左は山で崖が連なり、右は海で浪が岩に砕けて飛沫(しぶき)を飛ばしている。
 海上を見渡せば、今津の入江は浅春ながら、霞たなびいて静かに暮れてゆく。能古島に帰り行く白帆が絵のように綺麗なのに、金吾は心行くばかり眺めて褒めたたえていると、馬士は、再び振返って話しかけた。

 「私の家は、この山の中腹にあって、能古玄海一帯が一眺めのうちに見られ、平生わざわざ福岡から見物に来る人も、しばしあるほどでありまする。急がせたまわずば、今宵一夜、宿りなされてはいかがでござりまする? もとより樵夫(きこり)の住まいなれば、差し上ぐるべき馳走もなけれど、自慢の濁り酒でも進ぜましょう」

 と薦むる言葉の、いかにも親切らしいところから、今まで冷たき宿屋にのみ泊まり馴れたる金吾は、その朴訥(ぼくとつ)の真情が心から嬉しくて堪らず、

 「そんな結構なところなら、こちらから進んでもご相談いたしたきくらい。相当の払いは致すほどに、一夜の宿を貸してたべ」

 と頼めば、馬士は大喜びである。

 「それでは、これから登りまする」

 と言いながら、道も無き笹原に馬を導いて、次第次第と登って行く。
 日は暮れた。
 沖の漁火(いさりび)は、ここかしこに点々して数うるばかりである。金吾は、馬の上から沖の方に、幾たびも振返りながら、

 「これを、この馬士の家に着いてから眺めたなら、いかばかり綺麗なことであろう」

 と、まだ着かぬ先から着いたときのことを想像して楽しんでいると、道は次第に険しくなってゆく。あるいは登り、あるいは下りして、行くことおよそ半里ばかりで、一軒の家に着いた。
 古い家のようではあるけれども、うち見たところ、畳五十枚も敷かれるかと思われるくらい。
 馬士は馬を外に停(とど)めて、一人家の中に入り、何事か家の者に囁いて、出で来たりて、馬を家の後の方に牽き行き、

 「ここに下りたまえ」

 と云う。
 金吾は言わるるままに、馬より下りれば、家の中から雨戸を押し開いて、そこへ出てきた一人の男がある。恭(うやうや)しく金吾の前に会釈して、

 「いざ、ここよりお上がりくだされ」

 と云う。
 ここは、この家の客間らしく、二間の縁があって、畳十枚余り敷いてある。


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