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ヒストリア王女の結婚 3

 森の奥深く、清らかな泉のほとりに膝を下ろし、ヒストリアはそっと水面に触れた。指先に当たる冷たい感覚。円を描くように三度水面をなぞり、《常若》の言葉を囁く。
 それを合図に、泉の底から波も立てずにひとりの娘が姿を現した。ヒストリアと視線が合うと、濡れた緑色の瞳が柔らかに細められる。
「あら、ヒストリア。我らが愛おしい祝いの娘」
 ヒストリアは外套のフードを下ろし、微笑み返した。
「ごきげんよう、ウンディーネ。変わりありませんか?」
「ええ、変わりないから、少し退屈ね」
 コロコロと鈴の鳴るように娘は笑う。小さな滴が水面を揺らした。
 ウンディーネは銀色の長い髪を水にたゆたせ、ゆっくりと岸へと近づいた。彫刻のような神聖な美しさを持つ彼女は、水の精霊である。この泉を守護する《常若》の住人だ。
 その手の中には小さな水晶が握られていた。無色透明な美しい輝きを放っている。ヒストリは受け取るために手を差し伸べ、そうして手が重なった時、小さな虹色の火花がふたりの間に広がった。小さく言葉を呟けば、光は瞬く間に水晶の中へと戻る。
 ヒストリアは元に戻った水晶を柔らかなベルベットの布に包み、身長にカバンの中に入れた。
 その様子を眺めていた精霊が、不思議そうに問いかけた。
「なんだか浮かない瞳の色ね」
 岸辺に頬杖をついて見上げる瞳は鏡のようにヒストリアの姿を映し出した。ブルネットの髪をいつもより上品に結い、深い菫色の瞳はどこか憂いげな雰囲気だ。

ーー今日は婚約者がくるのよ。
ーー祝いの娘の伴侶がやってくるの。

 前触れもなく、木々の間から、忍びやかで楽しげな風のような声が降り注いだ。

ーーたのしみね。
ーーたのしみだわ。
ーーどんなひとかしら。
ーーうつくしいひとかしら。

 ヒストリアは眉根を寄せてため息をついた。
「おだまりなさい、風の子供たち」
 ウンディーネがぴしりと言うと、森に再び沈黙が訪れる。風と共にさすらう風の精霊たちは噂好きなのだ。時折、こうしてひとをからかう。
「ありがとう、ウンディーネ」
「ヒストリアも大変なのね。だから浮かない顔をしているの?」
「……ちょっと疲れているだけですよ。でも大丈夫」
 ヒストリは苦笑を浮かべた。
 女王に謁見して以降、スヴェル公爵の結婚の噂は瞬く間に広がった。社交界では密やかに、そして《常若》では驚きをもって。
 この二週間、ヒストリは将来の伴侶になるかもしれない客人を出迎えるための屋敷の準備に追われた。なにせ、偉大なる祖母が一緒なのだ。お小言は避けたい。
 加えて噂を聞きつけた《常若》の住人がそれぞれ自由に訪問をしては、ヒストリアへ祝福を与えるのだからたまったものではない。まだ結婚が決まったわけではないのだから、と言うヒストリアの言葉は彼らには届かないようだ。
「祝いの娘の結婚は珍しいからみんな嬉しいのよ。わたしたちにとって番(つがい)となる伴侶に出会うことは運命だから」
 ヒストリアの話を聞いて、精霊はコロコロと笑う。そして、純粋に問いかけた。
「ヒストリアは結婚がいや?」
 そっと小首を傾げ、不思議そうにヒストリアを見つめた。
 ヒストリは小さく唸って。
「まだお会いもしていないし、話しもしていないから……正直、わかりません」
「まあ、可愛らしいこと」
 慈悲に満ちた笑みは、どこか子供を見る母のようだった。《常若》の住人にとって、「祝いの娘」は大人になっても愛おしい子供なのだ。

ーーあら、やってきたわ。
ーーもうすぐ着くわ。

 森がざわめく。
 どうやら、客人がもうすぐ到着するようだ。
 ヒストリアは短いジャケットのポケットから懐中時計を取り出した。予想していた時間より早い。

ーー馬車が丘をかけてゆくわ。
ーーどんなかた?
ーーあら、彼は……

 それきり、あたりは深い沈黙に包まれ、そして間もなく頭上で風が強く吹き抜けた。新芽の伸びはじめたブナの木々を揺らし、低く唸るような音が空へと消えてゆく。
 隠れてしまったのだ。
 好奇心旺盛な風の精霊が珍しい。
「これは……」
 呟きながら、空からウンディーネへと視線を戻す。どこか不安げな表情をしていた。
「ウンディーネ?」
 問いかけると、精霊はすっと腕をのばし、ヒストリアの頬に触れた。吸い付く冷たい感覚が肌に伝わる。彼女はそのまま体をもたげて、ヒストリアの額に接吻を落とした。
「どうか、祝いの娘に祝福あらんことを」
 ほのかに額が熱くなった。
 《常若》の住人たちが、自分の力の一部を人間に分け与えることを祝福と呼ぶ。
 けれど、どうしてこんな時に。
 ふと我に帰って尋ねようとしたヒストリアは、けれど、精霊が水底に戻ってしまったことで、ひとり残されてしまった。
 立ち上がり、美しい翡翠色をした泉を静かに見つめる。けれど、戻らなければいけないことを思い出し、ヒストリアは小さく広がる違和感を抱えたまま、屋敷へと続く道を足早に辿った。


* * *


 ヒストリアが屋敷に戻ると、王家の紋章のついた馬車が丁度玄関に乗り入れようとしていた。
 侍女のエルデに外套をあずけ、手早くスカートの裾についた春の草を払う。
 今日の服装は普段よりも上品でどこか着心地が悪い。ターコイズグリーンのジャケットの上襟と袖には揃いの色で刺繍が施されている。同じ色のスカートの裾にも波打つように刺繍が囲んでいた。襟の詰まった白いシャツにはふんだんにレースがあしらわれ、それを彩るように、ストライプ柄の野苺色のリボンが結ばれていた。
 シンプルな服を好むヒストリアは流行というものに無頓着だ。けれど、普段通りの服装でおばあ様に会ったら、きっと「もっと若者らしい服を着なさい」と言われるに違いない。
 ギデオンが客人の到着を知らせにやってきた。ゆっくりと深呼吸をして、顔を上げる。
「ご主人様、瞳のお色が菫色でございます」
 ギデオンは直立不動で指摘する。
「……忘れていたわ」
 ヒストリアは目尻にそっと触れて、眉を寄せる。客人を出迎えるのに菫色は流石にまずい。なぜなら、これでは自分の憂鬱な感情がすぐに悟られてしまうから。
 ここ最近ずっとこんな色だから、すっかり忘れていた。
「ギデオン、どうしましょう」
「楽しいことを考えてみては?」
「無理よ。これから楽しくないことが待っているのに」
 瞳の色はヒストリアの感情に従順なのだ。祝いの娘の悲しい宿命である。
「スヴェル公爵殿下」
 ぴしゃりと称号名で呼ばれる、ヒストリアは思わず背筋を伸ばした。
「お客様がお待ちなのですよ?」
 茶色い瞳をわずかに細め、ギデオンは極めて冷静に告げた。四十代後半のはずなのに、まるで長い時を生きるエルフのようなひとである。背も高いので、余計だ。
 ヒストリアはぐっと唇を引き結び、仕方ない、とそっと瞳を閉じた。深く念じる。感情を水底に沈めるようなイメージだ。
「……変わったかしら?」
 ほんの短い間だった。瞼を開けて、忠実な家令を見上げる。
「美しい常磐色でございます」
 ギデオンが頷く。
 ヒストリアは緩やかに微笑を作り、優雅に客間へと向かうことにした。

 ギデオンが開いてくれた扉をくくると、優雅にソファに座っていた婦人の顔がヒストリアへと向けられた。
「まあ、ヒストリア。出迎えるのが少し遅いのではなくて?」
 懐かしい声に、不意に笑みが溢れた。婦人は細い杖で身体を支えて立ち上がると、しっかりとした足取りでヒストリアへと近づいた。
 その腕が広げられ、二人は抱擁を交わす。
「お会いできて嬉しいです、おばあ様」
 挨拶のキスを頬に受けながら、ヒストリは答えた。二人向き合って、よくよく互いの顔を見つめた。
 エリザベス王太后は孫の記憶と変わらず、意志の強い琥珀色の目をしていた。少ししわの増えた顔は、それでもその上品な美しさを失わせない。夫を亡くしてから喪服の頃に身を包むようになっていたが、細くしなやかな身体を上品に包み込んでいた。
「……あなた、背が伸びたのね」
「孫娘に久しぶりに会って、それだけでございますか?」
 祖母は片眉を器用に上げて、少し呆れたように首を傾けた。
「いいえ、思ったより女性らしくなって驚いたわ。さあ、あなたに紹介しなければいけないひとがいるわね」
 祖母は振り返り、後ろでふたりの再会を静かに見守っていた青年へと視線を投げかけた。
 入り口に背を向けて座っていたので、先ほどはその顔がよく見えなかったが、ヒストリアとそう年の変わらない、目鼻立ちの整った青年だった。灰色の紳士服を纏った体は細身なのに鍛えられているようで、背は高く、足も腕もすらりと長い。艶やかに整えた髪は白金に近い、目の覚めるようなブロンドだ。
 そして何よりも目を引いたのは、その右目を覆った黒革の眼帯だった。それが、どことなく不思議な印象を彼に与える。
 青年は祖母の視線に応えるように、にこやかな表情を浮かべた。小さく一礼をして、ヒストリアに向き合う。
「グロリア女王から聞いているでしょう? 彼はエヴァン・ガーランド卿。英国の歴史あるライントン伯爵家を受けついだ若き当主です」
 青年の碧い隻眼がヒストリアの目をとらえて放さない。どこか戸惑いの混じった瞳だ。
「ガーランド卿、私の孫娘でノルティア王国の王女ヒストリアです」
「はじめまして、ライントン伯爵。スヴェル公爵ヒストリアでございます」
 ヒストリアは粛々と淑女の礼をとる。
 ガーランド卿は笑みを崩さないまま、ヒストリアの手を取り、鼻先を手の甲に近づけるだけの挨拶をする。
 そして顔を上げた時、ヒストリアは祝福を受けた理由を悟った。
「はじめまして、ヒストリア嬢」
 黒い眼帯から、黒い雲のようなものが細く流れ出るのを、その一瞬ヒストリは確かに視た。
 青年が艶やかに口元で笑う。
 彼は古く複雑な呪いのにおいを纏っていた。


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オリジナル小説を書いています。現在「ヒストリア王女の結婚」を毎週連載中!日々の呟き|自作品のこぼれ話|旅日記|掌編|イベント情報を載せていきます。 SITE: http://primavera.ciao.jp/

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