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10月1日、今年もあと3ヶ月

10月に入りました。

2022年、コロナ禍も未だ終わらない感じでマスクを外せない日本ですが、7月の参院選、9月の安倍元総理の”国葬”の強行、台風と長雨による各地の災害、過度の円安による物価上昇・・・

本当に今年の後半、いろんなことが起こっていますね。

こういったいろいろな世の中の情勢が、刺激となって”今までとは違う意識”へとシフトしていく人もいれば、「まあ、いつものことだ」とやり過ごす人たちもいるでしょう。

”物事”に対する反応の仕方、というのは人それぞれなのですが、それがその本人の考え方や行動に現れるまでは、「教え込まれたもの」による影響というのは少なからずあると思うのです。

僕のような、ちょっと”ひねくれている”人は、「ちょっと待てよ?」という感覚を持っていると思うのだけれど、いわゆる”良い子”の優等生タイプの人の場合は、”周りが正しいと言っているから、正しい”という、日本人特有の同調圧力や、権威による圧力にとても弱いところがあるんじゃないかな?って思っています。

「寝た子を起こす」ようなこともいろいろ起きているのですが、”まだ眠っていたい”と、それに反応しないでいる、できないでいることもあるのでしょう。

僕自身は、スピリチュアル畑の人間なので、世の中の情勢が不安定な時って、「新しい意識」へ人々が促されている、目覚めへのいざない、として捉えているのですが、この「スピリチュアル」の世界においても、やはり大きく二つの流れに分かれて来ているのを強く感じています。

”霊的な感覚”というと、途端に受け付けられない人もいるのですが、いわゆる「第六感」という、言葉にできない、”なんとなく”という程度の微妙な感覚は、誰もが感じるもののはずなのです。

その自分の「ん?」という違和感を否定してくるものなのか?その感覚を大切にし、自らの思考や感性、感覚、洞察力、想像力などそのさまざまな”精神活動”を活性化する方向へと促すものなのか?

その違いはとても大きいものだと、感じています。

古来より、人々を支配してきた「ツール」の一つに宗教があります。

「神の声を聞くのは私たちで、あなたたちには聞くことができない。
 だから、あなた方は私たちの声を聞きなさい。」

という理屈が宗教の根底にある。

真に、信仰心を持つ人は、自分と神の間に”宗教”が入り込むことを本能的に嫌う。そういう人たちにとっては、自らの信仰と宗教は同義ではない。

スピリチュアルの危険性、というものを同じ畑にいながら、伝えようとしている僕は、政府や医師会の方針に盲目的に従ってしまう、あるいは本人もそれが正しいと思い込んでいる医師も多い中で、このコロナ禍で人々のために真実を明らかにしようと声を上げる数少ない崇高な志の医師たちの思いに共感するところがある。

霊的な能力がある。それは特殊なもので「私はあなたのことが”わかる”。」と、誰がか力を明け渡すように仕向ける古典的な手法は、この21世紀においても、その効力は失われていない。

現在のような、不安定な状況に世の中がなってくるにつれて、その影響力は大きくなっていくものだから、なおのこと、「自分の感覚への信頼」を強化し、その言葉にならない感覚を鋭敏に保つことが、試されている時代なのだろうと、僕は思っているのです。

「認識の拡大」と「自分自身への信頼」

言葉はそれ自体、空虚なもので”器”のようなものだから、その器に何が入っているのか?自分はその器に何を入れようとしているのか?をその微かな感覚の中で、常に観察する視点を持っておきたい。

『観察者』をいつも自分の中に置く。

意識の使い方次第で、自分と共にいて、常に自分を”観察”する存在を置いておくことができる。気付かないうちに、望まない場所へと流されてしまうことのないように。

”光が強くなるとき、同時に影も濃くなるものだから。”


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