現代と瞑想8 hu

ダイナミック瞑想第三ステージの、hoo(フウッ)と言う音声(以後huと表記する)について、若干の考察を加えて、一連のダイナミック瞑想についての記述を終わりにしたいと思う。このhu音は、イスラム神秘主義であるスーフィーによって唱えられてきた聖なる言葉であるという。

スーフィーについてwikipediaには、次のように記されている。
「スーフィーは特定の宗派または教義の呼称ではなく、もっぱらイスラーム世界においてこのような傾向をもって精神的な探求を志向した人物や彼らのまわりに生まれた精神的共同体もしくは教団の総称として、さらにそれらと結び付いた思想・哲学・寓話・詩・音楽・舞踏などを指すこともある。
個我からの滅却・解放、そして<神>もしくは<全体>との合一(この境地を「ファナーウ」という)をみずからの体験として追求する傾向が、広くスーフィーとして知られる諸派の共通点であると言われる。」

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こういった記述から、スーフィーとはひとつの大きな宗教宗派であるよりは、個が真剣に自らを探求する人々の集まりであると考える事ができるのだろう。言い方を変えれば、スーフィーとはイスラム教の中の密教的部分、あるいは本質的な核心だと言って良いのかもしれない。G.I.グルジェフはまさにそのような人々の中に居たもののようである。

さてこのhuは正式には、Allah Hu(アッラーフッ)として唱えられる神の御名であるということだ。こういったマントラ(真言)は、一種の言霊(ことだま)であって、特有のバイブレーションとその働きをもったものと考えられる。
Inayat Khanという人がこの事に関して、次のような興味深い事を書いている。
「huというのは呼吸、つまり生命維持の基本を意味する根源の言葉であり、ありとあらゆる言語の中に同じ意味で含まれている。」

ダイナミック瞑想においては、こような意味には一向に頓着しないのである。ただ音の響きそのものとして、生命エネルギーの源泉を打ち、それを呼び覚ますものとして用いられている。huと叫ぶと、それは身体の下部深く、丹田あたりに届くように感じられる。決して上体や頭部の音ではないように思う。
そもそもこの母音uは、生死に直結した音ではあるまいか。現に人は断末魔には、「ウー」と叫ぶのではないだろうか。

ダイナミック瞑想においてこのhu音は、その音そのものに全身全霊で成り切って叫ばれなければならない。私がhuを叫んでいるのではない、ただhuがhuとなって、宇宙一杯に響いているのみである。これを全身を使ってジャンプしながら行うのであるから、観念的なものの入り込む余地は全くないといってよい。

さてここまで書き進んできて、私が話をどこに持ってゆこうとしているのか、薄々お気付きの方もおられることだろう。
それは、禅のmu(無)についてである。東洋の西の端と極東の地で、同じような音が最も神聖なものとされてきているのは偶然なのだろうか。
muは、単なるマントラとは言えないのだが、ダイナミック瞑想のhuのやり方と軌を一にしているように、強く私には思われる。ここに一行三昧の端的がある。

明治の頃、禅の中原鄧州(南天棒)老師はしばしば、坐禅中に実際に「ムー」と声に出して坐らせたという。近所の人々は不思議がって、「こちらでは牛を飼っているのか」と尋ねたと言う。

禅で言う「無」とは知的に捉えられ得るものなのだろうか?言葉、思考が追うことのできるものなのだろうか? 思想・哲学は人間の精神的活動にとってとても大事なものだが、こと自分自身を直接に体取しようとする段になると、やっかいなことになる。知的に優れた人ほど悟るのが遅くなるといわれる所以である。
思考の本質そのものが、分けること、すなわち分別である。しかるに「無」の体験は、不可分の一体的直覚なのであり、そこには知る者も知られる者も掃蕩されたただのmuの響きだけがそこにはある、と言ったら少し言い過ぎであろうか。

趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性有りや、また無しや。州云く無。

(ALOL Archives 2012)

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