見出し画像

夢の中のノンフィクション

「すごいです! 来生さん、挑戦されてるんですね」
 麻生桃子が大きな声とまっすぐな眼差しで、来生(きすぎ)に言った。街の中の更に奥の路地にある小さなレストラン。来生はそこで仕事をしている。麻生桃子とはここで知り合った。仕事以外での関係はない。

 麻生桃子が放った言葉の意味。それは先日来生が受けた映画のオーディションの事だ。来生はその映画の役を獲得するべく、その場に赴き、一次審査の書類選考をパスした後、二次審査の結果を待っていた。結果は合格だった。次は最終審査だ。あまりにも驚いたせいか、その通知が入った封筒を鞄にしまったつもりが業務用エプロンのポケットに入れたようで、何かの拍子に落とし、店内で麻生桃子が拾ってくれたのだ。差出人の欄に書かれた名前で麻生桃子は映画会社と知り、興味からかごく僅かな質問をして来たので返答した。それが予想外の反応の大きさだったのだ。
「来生さん、受かったんですか! すごいです!」
「まだ本選じゃないから」
 気恥ずかしくて、ぼそぼそとくぐもった声で話した。
「それでもすごいです!」
 麻生桃子の方が受かったように興奮している。しかも声の通りが素晴らしく良く、店内に響き、店内の客が来生の顔をちらちら見るので若干の気まずさを感じた。それに "挑戦" なんて言葉を持ち出すには大袈裟すぎる。
「……じゃ、僕はそろそろあがります」
「あ、本当、もうこんな時間」
 麻生桃子は来生に、お疲れ様でした、と挨拶をしてすぐ仕事に戻った。その場に残された来生は恥ずかしさを隠すように仏頂面になりながら二階にあるロッカールームに行った。来生は悔やむ。どうして今朝に限って鞄とエプロンのポケットを間違うかな。朝、自宅の郵便受けで見つけ、そのまま持ってきて封筒はこのロッカールームで開けた。そこで二次審査の通過を知り、動揺したせいか。それが麻生桃子の言葉の発端。エプロンを外し、丸めて鞄に押し込み、上着を羽織った後、下の階に戻った。

 店内は夕食時で混雑し始めていた。交代のバイトが入っていたので業務の引き継ぎの説明をしてから店を出た。幸い、話は広がっていないようだ。来生は上着のポケットに手を無造作に入れて信号待ちをしていた。その時、店のドアベルが大きくカラコロと鳴ったのが耳に入り、思わず振り返った。
「来生さん!」
 大きな声で僕を呼びかけたのは先ほどの麻生桃子だ。彼女は制服である白いシャツと黒い業務用エプロンのままで走ってきた。
「あの、さっきはたくさんのお客さまの中、大声で言っちゃってごめんなさい!」
「気にしなくていいよ」
「でも本気で思うんです。夢は大事だと思うんです」
「まぐれだよ」
 来生はつい照れから、仏頂面のままで話してしまう。
「そんな事ないです! でも来生さんが俳優さんを目指しているなんて知らなかった」
 麻生桃子は来生の態度に怯む様子もなく来生を見つめながら言う。
「誰にも話した事ないから……それより店に戻った方がいいよ。今混んでるから」
「あ、そうですね。それじゃ、お疲れ様でした!」
 麻生桃子は元気に挨拶をすると来生に礼をして、小走りで店に戻って行った。

 一つに結んだ髪が左右に揺れる。軽やかに躍動する背中の動きが白いシャツの上からも判る。そんな彼女の若さと無邪気さが相まって、来生には彼女がとても眩しく映った。それほど年の差に開きがある訳でもないのに、夢に酔っ払って封筒を見られて動揺してしまうような自分を思うとやっぱり恥ずかしくなる。麻生桃子はアルバイトから正社員へと昇格したので、来生とは勤務時間も仕事内容も違った。来生にも正社員にならないか、と店側から打診はあった。とてもありがたかったけれど断った。それはやはり俳優になる事を望んでおり、劇団に所属し、エキストラの募集が出ればすぐに駆けつけるため、時間が不規則になるし、迷惑をかけてしまうという理由もある。だから不便だとは思うが辛いとは思わなかった。

 道すがらコンビニに寄り、何種類かの惣菜とペットボトルに入ったミネラルウォーター、そして少々ためらったが可愛いブロンドの女の子の表紙に魅かれて青年雑誌もカゴに入れた。うさぎの付け耳に下着、白いカラーと両手にカフスだけ、という本来なら服としては機能しない出で立ちでポーズをとっていて、纏った小さなブラジャーから胸が零れ落ちそうだった。

 翌朝、目覚まし時計が鳴って目を覚ました。
 一応とは言え、大学を出たのに家にいるのは両親に忍びないので自分で生計を立てなくては、と一人暮らしをしている。当然起こしてくれる人はいない。目覚ましを止め、両手で顔を乱暴にこすり、体を起こした。トイレに行ってから、歯を磨き、顔を洗い、その辺に置いてあるTシャツを着てスウェットパンツを履いた。
 コーヒーメーカーでコーヒーを落として飲む。頭がしゃっきりと目覚めた頃、冷蔵庫から昨夜買った惣菜、鶏肉のトマト煮込みを取り出し、電子レンジで温め、炊飯ジャーであらかじめ炊いておいたごはんをたっぷり茶碗によそって、野菜サラダ、インスタントの味噌汁と共に食べた。食欲は今の生活の命綱だ。食事だけはきちんと摂ると決めていた。しかし食後の煙草がやめられない。これだけは個人の趣向だ、と言い訳をしている。だが吸おうとして箱を見ると空だった。確かめておけば良かった。短くため息をついて、店に行く前に買おう、とぼんやり思った。

 ふと、確かめておけば良かった、という言葉の端に浮かぶ、妙なマイナス思考は、最終審査に行こうかどうかと、ますます来生を迷わせた。まだ一ヶ月先ではある。二次審査の通知が届く前は根拠のない自信を持ち、絶対に最後まで残ってやる、と意気込んでいたと言うのにどうしたものだろう。頭の中が迷路のように偏った言葉でぐるぐると回転している。画鋲で壁に貼り付けた二次審査通過の封筒を来生は、じっと見つめた。ふと、隣に貼ってあるカレンダーが目に入った。そこには今日の日付けに『休み』と自分の字で大きく書いてあった。
「やっぱ、俺今日はだめだ……」
 どうしても悪い方に関連付けてしまう。劇団も大きな舞台を控えた稽古のため開いておらず、実質一日休みだ。部屋にいてもきっとうだうだと考え事をしてしまうだろう。

 結局、来生はいつも仕事に行く時間のバスに乗り込んだ。
 今日は快晴で休み日和だ。街の中まで行って本屋でも行こう。来生は読書が好きだった。昨日衝動買いした雑誌も、多少言い訳は入るが気に入ったのだから良しとした。
 バスは来生の他に何人か客を乗せていたが、次々と先に降り、来生一人のみを残した。揺れ方が心地良い。もうすぐ停留所だぞ、寝るなよ、俺。来生は心の中で自分に喝を入れつつも首が、前後に動くのは止められなかった。どうにかその眠気と闘いながら窓を見ると驚愕の風景が眼前に広がっていた。

 夜になっている! 慌てて時計を見た。しかし家を出てから数十分しか経っていない。思わず立ち上がろうとしてよろめいた。めまいがする。床がトランポリンのようでうまく進めない。なんだこれは。動揺だけで何もできない。

「お客様」

 よく響く低い声で話しかけてきた運転手を見て、来生は息を呑む。
 にやり、と笑いながらこちらを向いた運転手はいつもの顔なのだが、昔の個性的な芸術家のように生やした髭の先をくるん、とカールさせ、おまけに、うさぎの付け耳と大げさな蝶ネクタイを締めていて、昨夜買った雑誌の美女の格好を思わせた。もちろん、こちらは美女ではない。
「まあ、落ち着いて下さい。これは貴方の世界なのですよ」
「俺の世界?」
「お客様、お心に戸惑いを抱えたまま乗車されたでしょう。このバスはその人の心の景色を表してしまうのです。貴方は今、真夜中の真っ只中にいらっしゃいます。いけませんね。心配です。そして解決しないことにはバスから降ろせないのです」
 うさぎ運転手はまたしても、にやりと笑う。
「冗談はやめてくれ! 降ろせ!」
「降りられるものなら降りてごらんなさい。無理でしょう? 今の状態では」
 来生の体は、ぼよんぼよんと跳ねてしまって一歩も前に歩けない。
「今日はお仕事もお休み。劇団も大きな舞台を控えていて貴方が行く必要はありませんね」
「なんで知ってるんだ?」
「貴方の心の中が教えてくれるのですよ」
 うさぎ運転手、にやり。
 頼むから生きて返してくれよ、と、恐る恐る思う。
「大丈夫ですよ。貴方次第ですがねえ」
 心の中が読めるのか。なんて不気味なうさぎなんだ。そんなふうに思いながらも何となく抵抗するのも疲れて、来生はトランポリンのような床に座った。

 改めて外を見る。夜の景色。田舎だから灯りが少なくて夜景としてはあまりきれいじゃない。けれど嫌いではなかった。感傷的にさせてくれるもの、それはどこか感情として必要だと思えた。幼い頃から一人で空想する事が好きだった来生にとって、夜は暗くて怖いものではなく、たくさんの想像をしてわくわくできる楽しい存在だった。あの頃の想像がそのまま今の自分を形成している。そんな想像という夢の中からオーディションは現実へのドアを開けたように感じていた。すると、急にまためまいのように眼前が回転した。

 夜から、いきなり夕方の景色になった。今にも沈みそうな陽光はバスの中に届かない。魚が空を飛んでいる。大きな金魚だ。憶えている。幼い頃、両親と露店で金魚すくいをして手に入れた金魚。思い出したくなかった。その日、はしゃぎ過ぎた来生の手から、金魚の入った袋が離れた。暗かったのと人波に押し出された事で、すぐに探せなかった。両親はそんな来生の頭を撫でて慰めてくれた。来生は泣いた。だからと言って、もう一匹は買ってくれなかった。
 次の日早朝、金魚を手放してしまったであろう路地へと急いだ。淡い朝の陽射しの中、土の上で金魚を見つけた。金魚は、少しの間住み家としていたビニール袋の中で、水が流れ出してしまい、そのまま空になり、動けないままラミネート加工されたように袋にぺったりと張り付いて死んでいた。目をまんまるに開けたまま。僕のせいだ、ごめん。そう言って土の中に埋めた。こんな思いをするのならもう金魚すくいなんてしようと思わない。悲しかった。何もしてあげられなくて、ただ死に向かわせてしまった事が。今でも来生の心を締め付ける思い出。泣き出しそうになるのを堪える。

 それからずっと、言葉の通り金魚すくいはしていない。祭で露店を見つけるたび、金魚の方は見なかった。ひよこなんてもってのほかだ。あれほど泣いた事はないほど、来生は泣きに泣いたのだ。数日経つと、家族はみんな金魚の事なんて頭にないかのようだった。それが悲しく、また、数人のクラスメイトに話すと泣いた事をからかわれた。それ以来、来生は心を閉ざした。とは言え、引きこもった訳ではなく、ただ本音を話さなくなった。大事な友達、恋人、その想いとは別の心の場所で、小さく灯火のように育ち、いつしか熱く語りたい思いが募り、どうして良いのか判らず自分自身すら持て余すようになっていた。

 すると、どこからか音楽が聴こえてきた。幽かな音が少しずつ少しずつ大きくなっていく。来生が小学生の時、初めて目にした映画の音楽だった。あの景色。色彩豊かで見事な観覧車。やけにひん剥いた目を持つ馬が特徴的だったメリー・ゴー・ラウンド。主人公は中年に差し掛かった男だったが、その表情はくるくると変化し、女たちとキスを交わし、物語が進むにつれ、魅力的に映った。今思えば成人指定にあたる作品だったのだろうが、来生が幼かった頃の小さな町にやってきたフィルムはそれほど細かい事に構っていられなかったらしい。時間潰しのために入ったはずの映画館は、来生を夢中にさせた。更にあの頃、一度入場してしまえば何度も何度も席を立つまで上映は繰り返された。持ち込みも自由だった。初めて観た映画は来生少年にとって、生まれて初めて自分の中にある情熱を放出させる術の発見となった。

 帰りがすっかり遅くなり、真っ暗になった映画館の外で、怖がるどころか気分が高揚し、まっすぐ家に帰れなかった。内側から感動が噴出しそうになる。きっと家に帰っても母親に遅い時間になったのを注意されるだけだ。もう少し余韻に浸っていたい。そう思い、歩道橋を一気に駆け上がり、上がりきった橋の真ん中で大の字になって空を見た。満天の星が来生を照らしていた。歩道橋の手すりはファインダーとなり、その瞬間だけ星空は来生だけの物になった。
 それからは、映画が幼い自分を認めてくれる唯一の存在になリ、いつしか自分も役者になりたいと思うようになった。あの時目にした映画の存在は、常識を常識のまま捉えなくてもいい、それは粋にも成りうるのだという事を教えてくれた。

 気づくと目を閉じて音楽に聴き入っていた。外を見ると早朝になっている。深いトマト煮込みの匂い。コーヒーがフィルターの上に落ちる微かな音がする。今朝だ。
 うさぎ運転手は改めて言う。
「貴方の世界なのですよ」
 来生は、もう抵抗せず息を整え、改めてバスの窓を見た。
「貴方は非常に感受性が強い。今までの記憶をまるで昨日の事のように呼び出せる。そのレーダーを外に発する時期に来ているのでしょう。迷っていたら永遠にこのバスの中です」
「それは……」
「はい」
「最終審査に行けって事?」
「どう思いますか? そうそう、昨日チャーミングな女性からもらった言葉はどうお感じになりましたか?」
「昨日? ああ、麻生さん?」

 あの言葉は、本来なら喜ぶべき言葉のはずだった。なぜ素直になれなかったのか。理由は一つしかない。怖気づいていたからだ。バスの外の景色は、今や流れるように夕方の眩しい夕陽に変化していたが、もう来生は驚かない。今見えているこの夕方は初めてのバイト帰りの道だ。慣れなくて先輩からの注意にへこんで、それでも悔しくて歯を食いしばって歩いた日の夕陽だ。そうして働きながら夢を実現させるんだと、あの映画に出て来た鮮やかなメリー・ゴー・ラウンドを思い出していた。
 一日一日は長かった。演劇と仕事の両立で体もきつく、険しくなり、時折、演劇なんか続けてどうなるとも思えたが、そんな悩んでいる日の夕方にも、夕陽は変わらずこちらの気持ちも考えず、のほほん、と辺りを照らしていて、天気は心を読んでくれないんだな、と当然の事に気づき、なぜだか笑えて来た。それが、今の自分が見ているもののすべてで、周りを気にしているのは自分だけで、誰も来生の夢を知らず、ただいつの間にか、時間をかけるうちに不安は不満になり、自分自身と周りとの思考の乖離を怖がるようになっていた。大きな一歩じゃないか。夢を掴めるかも知れないのだから怖く感じるのは当然じゃないか。大切な夢なのだから。そんな当たり前の事すら見えなくなっていた方が怖い。明日、麻生さんに話しかけよう。もらった言葉に礼を言おう。どこまで行くか判らないけど精一杯やってみると。来生がそんな思考に持って行った時、うさぎ運転手は自慢の髭をぴん、と弾いた。バスは、がくん、と音を立てて止まった。その瞬間、来生は我に返った。

 辺りを見渡すと、バスの中ではなかった。
 静まり返った自分の部屋に来生はいた。カレンダーを見るとやはり『休み』と記入してあリ、二次審査の書類が入った封筒もやはり壁に画鋲で留めてあった。夢じゃない。瞬時にわくわくと胸が躍り出し、やってやるぞ、と心が沸々と滾る。久しぶりの感覚だった。

 その勢いで、もう一度奇妙な体験をしたあのバスに乗る事にした。もしも同じ事が起こったら、自分の夢や生活以前の問題だ。同じ日の朝の行動を繰り返す事になったが、用意をして外に出た。
 バスは、いつものようにたくさんの通勤客を乗せ、その中に自分もいて、たくさんの客を降ろし、そして何事もなく、自分の降りる停留所でバスは止まった。ちらりと覗き見た運転手は、うさぎの付け耳もカールした髭もなく、いつも通りの風貌で、バスの中を歩いても床はトランポリンにならなかった。

 街の中を歩いた。みんなが仕事に出かけているであろう時間帯、バスの車窓から見た幻想のような自分の思い出の場所を一箇所ずつ、来生は歩いてみた。あまりきれいじゃない夜景の見える場所も、金魚を手離してしまった路地も、エネルギーが満ちた映画の帰り道、寝転がったあの歩道橋の階段も。
 歩道橋に着いた時には既に夕方になっていた。あの頃のように寝そべりはしなかったが、手すりに腕を凭れ掛け、胸ポケットを探った。やはり煙草はないままだった。夕陽は、今にも街の中に消えてなくなりそうだったけれど、沈むものか、と意地で光を放っているように眩しかった。目を細めると煙草の煙のように輪郭があやふやになる。まるで夕陽が泣いているように。来生は自分に似ている、と思った。
 自分は今、どんな顔をしているのだろう。決してドラマティックではない人生でも諦めずに生きてきて、まだまだ夢も始まっていない。けれど動き出している。そんな、不器用に出発しようとする男の顔つきは、一体どんな。

「来生さん?」
 いきなり現実に戻す声がした。声の方に目をやると麻生桃子がいた。髪は長さそのままだが下ろしていて、職場で見る雰囲気とは違って見えた。
「あれ? 麻生さん?」
「あ、やっぱり。こんばんは」
「こんばんは。仕事以外で会うの初めてだね。驚いた」
「私もびっくりしました。お休み、一緒の日だったんですね」
 麻生桃子がにっこりと笑う。うさぎの運転手が言ったようにチャーミングだった。
「急に話しかけてごめんなさい。来生さん、すごく雰囲気があってびっくりしちゃって」
「雰囲気? 僕が?」
 思わず吹き出した来生に、麻生桃子は少しだけムキになって言う。
「だって素敵で、本当に俳優さんみたいだったから」
 来生は思わず言葉をなくした。
「ご、ごめんなさい、私、昨日から余計な事ばかり言っちゃって……」
 少し困った顔をする麻生桃子に、来生は淡く微笑みを返しながら言う。
「余計な事じゃないよ、麻生さんの言葉、焼きついてたよ、それなのに感じ悪い言葉を返しちゃって悪いなと思ってた」
 麻生桃子は、やはりまっすぐな瞳で来生を見つめる。
「落ちたらかっこ悪いけど、最終審査、がんばろうと思う」
 麻生桃子は、ぱっと華やかな笑顔を浮かべた。
「かっこ悪くなんかないです。挑戦してる来生さんはかっこいいです!」
 癖なのか、また大きな声で言う。
「照れるね。でも、ありがとう」
「いいえ!」
 麻生桃子は大きく首を左右に振る。黒髪が揺れる。言えた。彼女にありがとう、と。これで大丈夫だと来生は思う。一人の人間として。麻生桃子の笑顔は弾力のある頬が夕陽に照らされてつやつやとしていた。その笑顔が来生にはとても感動的で、大きな力になる気がした。例え落ちたって次がある、と、強い心で思える。

 明日、また元気に麻生桃子が挨拶をしてきて、仕事が始まる。その合間を縫って演技の勉強をする。そしてくたくたになった体でコンビニに寄って、少しスケベな雑誌なんかも買ったりするのだろう。そんな現実に、ふとため息が出る。しかし、どれほど疲れた心に埋没して、やりたい事を見失い、時に忘れたとしても、どうしてもはみ出してしまう熱さが胸に刺さっているのなら、心は蘇る。何度でも。
 来生は癖でポケットの中を探ったが、煙草がなかったのを思い出し、軽く舌打ちをしたが、そんな態度とは裏腹に来生は微笑んでいた。


《 Fin 》
初出 2014年7月
推敲 2024年8月3日

※この作品は下記リンク先にて購入できます。ぜひ!(もう一篇収録しております)

あとがき

 こちらをお読みいただき、ありがとうございます。
 かなり前の作品になりますが、今どうしても再度アップしたいと思いました。最近、夢や希望なんてきれいごとなんかじゃない、という想いを新たにした出来事がありました。夢や希望は大小構わず、自分だけが唯一持っていられる矜持であり、誰にも邪魔させない絶対領域です。

 創造に対する今の世の中は、この作品を書いた頃とは大きく異なり、一見規制が厳しくなったように思い、まだまだ自分でも把握しきれていません。それでもフィクションとノンフィクション、ジャンル、ルール、それらを自分の中でアップデートしていく必要性は常に忘れずにいたいと思います。物語を紡ぐ事は作者が思う以上に誰かの心を傷つけてしまうかも知れないけれど、現実の中での常識を守って生きていく、という普遍のマナーを身に着けて、これからも頑張って行く所存でございます(なぜ最後だけバカ丁寧に…)
 
 ちなみに、この物語の続編にあたるのがこちらの掌編です。同じく来生が登場します。よろしかったらご一読下さい。改めて、つくづくファインダー表現が好きだな、と思いました(笑)

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

幸坂かゆり🐱

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?