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絵画における終末点としての不観測主義

不観測主義は一つの答えだ。

なぜか。絵画という人間行為による到達点になりうるからである。
しかしこれは前提として起草であり且つこれを文章で書いた時点で部分化される為完全説明は不可能である。
個人個人の感覚にフィットさせるには私の絵を見てもらい思索してもらうしかない。
また到達点ではあるが勿論あくまで"点"なので更なる進歩は永続することを覚えておいて頂きたい。

しかし終末点的答えというのは、
それが最も優れてる、賞賛を受けているなどと言う非本来的な感覚に則った話をしているのではなく、今現時点でその芸術的歴史に則った場合見える地点として最も際の様な場所にあるイメージが導き出せるかもしれないという泡沫のような期待と、
これを感知した他の高尚な者のインスピレーションを刺激せしめんという傍若無人さから発言をしている。
このドタバタ社会衰弱者の私が何を言っているのかを整理する為にまず絵画という事物の「流れを」見たい。
絵画または絵とはどういった流れなのか。人は絵に対し最初見たままを正確に描き出すことを求め、その技術を高めた。よりそのままに目に見えたままに描く力と技を身につけ且つそれ受け継いだ。生産とは全く意味のない行為だと言うのにだ。
しかし人はそれを続け、そして時代の要請(社会の発展)に従い自分の様々な感情を入れてきた。それが芸術となった。
芸術は社会と非社会を強制的にワープさせる媒体でありそれは非常に曖昧ながら正確な効果をもたらしてきた。
だからこそ王は権力者は芸術者を常に重用してきた。人間は芸術の投企性を最初から解していたのかもしれない。
そしてその超コード化社会が崩れゆく夜明け前に「我思う故に我あり。」とデカルトが言い放った時から、完全に自分の感覚に根差した作品を生み出すことを人類は始める。
その後のセザンヌ、印象派、それからピカソのキュビズムなど革新的な画家達は皆、対象を視覚的な正確さよりもより多面的に多角的に流動的に事物を描きだそう踠いた。人は目に映る通りにはいない。
とにかく彼らは己の人生を投企して「実」を描こうと取り出そうとした。
それは明確に逃走であり闘争である。最も高尚な戦いの一つだ。
ジャコメッティが何度も輪郭線をつぶしたり、フランシスベーコンが人を筋肉の運動に従って融解させるのも然り。しかしそこに噛み付く様にシュールレアリズムから発せられた完全な想像物の流れも出来た。これは現代アートやイラストレーションに行き着くと感じる。
ただしそれは本来的絵画性というよりかはある種社会遊戯的性質が強く出ているものだ。世界(自然)描写をはいすることで一種痛み止めの様な作用をもたらすのではないだろうか?それは時代によって非常に必要になった。だからこそここまでそれが隆興したのだ。
しかし私は自然描写を排することは絵画本流とは違うのではないか?そこでもう一度絵画の本懐へ目を向ける。絵画そのを鑑みるうちに、根本的目的の一つとして絵画は人(自然)を目で見た以上の真実(実体)に近づいた描写をする為にあることだと私は考えた。
要するに「自分の知覚したままに世界の有様を描く」という行為こそが最も自然に即した描写であり即ち芸術の絵だと。ハイデガーの言葉を借りると死の先駆を経て現存在がもう一度世界を見直した時に出ざるを得ない、非本来的から本来的へと移行する為の切符またはそれを示す正しく「証し」になり得るものとして湧き上がる感情とともに動かすこと。

そして身体を動かし表現される自然(art)は全て同一のテーマを持つことが可能では無いだろうかという問いのもと、固有の表現、方法、感覚で描いてはいるもののその発信点と心理的発生過程がほぼ同一であるならば、
目的地は絞られている可能性がある。
その目的地の一つとして「実(神)を描きたい」はかなり的確に絞られたテーマでは無いだろうかと言うことだ。

では正確な実体とは何だろうか。私は実物をより細かく見る為に哲学と科学を見直す。芸術は芸術学(それを哲学からは万物が流転し、普遍的な物は無く、人が光の様な開示性をもつこと。そして科学からは生物の構造、量子力学、素粒子学などから物質の本質としてある種の"ひもの振動"が私達の世界全ての構成要素として存在していることを。それらを合わせかつミクロマクロ双方の規模に照らし合わせながら導かれる答えとして、

つまり固定したものは何も無く、
森羅万象は全て振動(動き)によってできている。

という結果が浮かび上がる。
そしてすれば今もっとも実体に近い描写をするには"振動"自体を描く必要が有るはずだ。
振動は高速に変動を繰り返し常に変化をし続け、その場に留まるないしは固まると言うことを拒否する。そして量子力学では数値が確定するとその事象自体に部分化が起きてしまい全体が分からなくなるので数値を決めるということをしない。
では何故数値を決めるのか。
これは有史以来文化のメインストリームとして物質が固定された本質として存在すると認識したがために、齟齬が生まれている。
それは目という最大の貢献者であり最大の詐欺師によるものであった。文化は明確に目の文化だった。身体的に噛み砕けば我らの文明の考えは目を崇拝した前提をとる。
「視覚は他の器官を支配する」という記述通りそこから文字など(媒介)が肯定され我々の社会に血流をながす。
しかし、ここまで社会が煮詰まったと言うのに、誰一人としてその精神の罠から抜け出せず、むしろよりその牢獄が強まっている様に思えるのは私だけだろうか?
それは間違いなく物事が固定物として捉えられている意識と知覚によるものだ。
我々は「定住」をした時エデンを追い出された。
定住に対する智慧こそが罪の果実だったと考える。
神に対してのオイディプスコンプレックスか、それとも我欲か。しかし少なくとも現存記述を辿ると我々が手にした知恵の実は認識という形で失楽園したのだ。
まさにそれは定住により我々が流動をやめたからである。定住は物事の認識をも固定化させ、且つそれにより「富と数」を生み出した。
いとうゆうま氏によれば現在に生きる狩猟採取民族ムラブリに数を聞くと、4からもう"沢山"という判定になり数えないという感覚になるという。これはまさしく定住の度合いが低く彼ら自身が流動しているからである。
動きの中に物事を固定する「数」は重要でないのだ。
つまりはこの社会という乱痴気騒ぎの元は「物事が固まった」証しなのである。
流動という唯一の本質に抗い且つそれを知恵により制するという究極の回り道をしたのが我々人類だ。

しかし安心すべきだ。これは間違いであり広大な学びの旅であるから。本当に我々という最も矮小で悪辣な可能性を押し上げるためにはこの永劫回帰が必要なのだ。このループを理解し俯瞰することを願われて作られた種族なのだ。
だからこそ今ようやく創世記に立ちかえることができ、そこを掘り返すことを運命は許したのだ。まだまだ私の行為は時代の要請とポイント的にその大いなる岩宿の扉を叩くに過ぎない。
しかしこの"Knock"が間違いなく後世につれて増えるはずであり、しかも各地でこの動きは世界各地で起こる。そして水車の様に一度周り出せば止まることなどない。
最も破壊的で生産的な回転が始まるのだ。
よってこれからはそれ自体を「こうだ」と確定することは出来ない。というよりは全ての物の見方が翻り急激な進化と退化が同時に行われる。
私はその礎として人自身を讃えん為に絵を記す。

しかし記すという行為自体も危険である。しかしこの物質と振動の時代の変遷期にいる私はそれしか今できないことを許して欲しい。
今後テクノロジーが変遷すればまた変わるだろうが。兎に角私の存在状態で振動による実像を描こうとするならばまず。
振動を見ながら"振動"として描いてはいけない。

だから私は根本から描画方法を変える。
変えなければならない!

物事を体験・観察した後、観測せずに描く。
この具体方法はまだ完全に確立していない為、投企の為に明確な記載は秘匿とする。
人間描写においてそれを発揮する為に各対象は間違いなく女性性を多く持つ者でないとならない(※生物学的女性のみを言ってはいない。)なぜなら女性性は全体(自然)に開くことが出来る鍵であり且つ全体そのものだからだ。
重要な振動を探り出す為だ。
まず対象と過ごす。それはごく普通にである。寧ろ描こうなどと思って接してはならない。
なぜなら描くという前提のみを残し、後は物事が確定してしまうのを防ぐためになるべく想いという曖昧な動きから創る為だ。
しかしながらいずれ描くという事実は受け止めながら時を共にする。触れる。感じあう。矛盾的性質は不観測を強められる。
そして観想を観測し観測を打ち消す。再び観想を打ち消し観測が隆興するのを解しながらも再度観想によって観測を打ち消す。そしてこの繰り返しをエンジンとし筋肉の脳と細胞により処理がなされながら描写が始まる。無数の振動がキャンバスに夥しく広がる。しかしただ描くのではない。
「折りたたみ」を構想しながら描かなくてはならない。
これは量子力学による予想である超ひも理論に基づいておりカラビ=ヤウ空間によればその次元面を幾度となくコンパクトするという。だからこそ私はコンパクト化する描写法を用いて黒線を記載してゆく描画というよりは記載に近いかもしれない。このイメージはまだ公開できないのが口惜しいところではあるがイメージとしては以下の動画を参照して欲しい。球を裏返すという方法である。

https://youtu.be/SLQEIDeZSmQ

折りたたみ方はこの描写を基盤とする。是非感覚を想って見て欲しい。そして何か思ったことがあれば気軽に連絡をして欲しい。
実はまだそれだけだと結局のところ一面性しかとらえらえない。

それをクリアするために用いたのが「Triptych」である。そしてそれは新しい日式(後述)でするべきだ。
これは何か。
かつて基督宗教絵画から取られた方法で三位一体を表すという名目のもとそのバランス性の良さから3枚の絵を連関させて一つとしている描写法のことである。
これに私はいたく同意と感嘆を持った。
三面からの記載ないしは描写はその次元性を線、平面から立体に持ち上げることが可能となりようやく我々に密接に繋がることができるのだ。
それは立体と平面の間を自由に行き来する確率を含むことができるのだ。
ただ、それはあくまで基督としてのニュアンスを抜けられないドグマをもつ。
かのベーコンも最初は磔刑の絵画からトリプティックを見出し使用を決めた。
私も同様にこの構造を解したあと絵画性からの逸脱の為使用を決めたが我々はその聖書性を脱さなくてはならないとも気づく。
何故ならば我々その西洋隷属の歴史を持った者達でトリプティック自体完全な西洋化の手法である。それは確に追随まではできるとしても進化(脱却)が可能か?と言われると些か弱い気がしてならない。
トリプティックの使用自体は良いのだがそれだけでは実には到底追いつかない。
寧ろ離れる恐れもある。兎にも角にも"実"に近づく為に私が導き出した結論として使用したのは文字としての「漫画」形態とそれを読む際の「多重言語化」の性質であった。
これは日本による要素でありそこから日式とした。前に養老孟司が漫画という性質はそのまま日本の音訓読みの産物だと指摘した。
何かというと場面(画像)と吹き出し(音)とを同時に見せ事の内容を伝えることは日本の漢字使用形態も同一であり漢字という象形(画像)に読み(音)という構造がとられ、且つ日本の文字の特徴であるオノマトペによる感情の掲載が可能であるが故に漢字一字ないし漫画のコマ一つで情景や事物の内容が掴めるという事は日本語の特別性質である。これの重要な点は表示している画では言及していない場面もカバーすることではないだろうか。

これはドラえもんが抱腹絶倒している場面である。
しかし我々は吹き出しのセリフとオノマトペと彼らの表示によって、「おそらく野比が何かしらのミスをしてしまいドラえもんがそのことに嘲笑し且つ彼のツボに入ったのだろう。または剛田と骨川に嫌がらを受けたのかもしれない。」ということが一つのコマだけで推測できる。これは表示の範囲を超えた部分である。しかも対象の感情という人格性質まで分かる。つまり漫画のコマにはそれは描かれていない場所を読ませることが可能である。

この漫画の効果は日本語という複雑怪奇かつ非合理的言語だからこそ成し得た表現の局地である。
だからこそ今世界中で漫画が読まれてしまっている事実がある。
日本の文化・言葉として重要な重なった意味を持つ一語というのがある同じ音でも意味が何重に重なりながら意味が表徴していく特徴を先述したトリプティックに加えることにしたのだ。
そのために三面を一つにまとめる事になる。
まとめ方は最初躊躇もあり特に形式はなかったが今では下or上三分の一に横線そしてその中点に垂直に縦線を入れる。
これが今のところ最も基督的であり且つ形骸化したトリプティックの為に反基督的になりうると考える。
しかしここはもう少し探求が必要なのである。そして私は基督と反基督にポジションは持たず寧ろその二つを両立させるアノマリー(動物性)に期待をするのだ。この一面化同時に漫画のニュアンスを得ることで要素を吸い上げることができる。
オノマトペの記載は必要ない。寧ろこの3点の並びがオノマトペを自立的に想起させる構造を持っている。
一枚に3体がそれぞれの形式をとりながら一つの意味に収束しそれを多重の音が支える。その音は絵から自動的に出てくる様な仕掛けによりハイコンテクストな多重化も起きる。
その二つの重なりが一面的絵画を立体以上に押し上げつつも無数の振動によりその次元局面は湾曲し折りたたまれていく視覚の往還的運動がそこに起こるのだ。
なんたる虚実。我々はここまで発達した感覚器を持ちながらも対象を実に見ることなど到底できないのだ。寧ろこの感覚器が邪魔をするまである。
目の前にいた対象は瞬時に黒い網羅の蠢きとなり私に触れる。嗚呼、それを恐ろしいと思う私の哀れさを何処に嘆けばいい?
何故なら逃げようにもその黒い森羅万象は私も含めてそうなのだから。サルトル的嘔吐。実を追うことは吐き気を催す行為なのだろうか。わからない。
兎に角私はわからないし分かろうとする運動を続けるだろう。それがエネルギーの生成に必要な氣がしてならないからだ。
しかしこれは私という矮小な部分の唯一の軌道(振動によるものの為)かもしれない。どうやらその道に私は進まなくてはならない様だ。
実を描くという行為自体がある種全類的祈りであるのは間違いなくそれに対して善悪などつけられるはずもないのだから。
しかしただこれを描写するだけでいいのだろうかという疑問が湧き出る。これはどういうことかというと一般的絵画を描写する際に使われる物質は「絵画」という言論に閉じすぎていると考える。
特に日本では絵画というものの存在自体が些か特別すぎはしないだろうか?
しかし絵は媒体である。実を追う為には絵画という非現実に閉じこもることを辞めなくてはならないのではないかだろうか?
より多くの現実(生活自体)に近づくためには最も現前的な素材である物を使うべきだ。
それに描写を与えることでより実になり得るだろう。誰もが使い誰もが忘れ去る様な。普遍性と頽落性を持ちながら且つ平面に理解ある素材。
それは段ボールだ。
それは今の私の様に圧倒的金銭貧者から非常に力のある者(脱コード化社会による数字基準によりこの様な記載になる)もそして家を打ち捨てたものも中間に生きる所謂一般人も含め、

平等に人類誰もが使用するものではないだろうか?

最も生活に根差したが故に普遍性をもつ平面は段ボール=Cardboardである。
また段ボールは断熱が可能であるそれは側面構造を見てもらうとわかるだろう。
平面の間に波打つ平面が挟まれているのだ。これは超ひも理論を介する際に使用される平面宇宙プレートとその間を自由に行き来する重力子と振動(周波数)により繋がれた世界という二つの構図を想起させる。私はこの不思議な断熱構造は何重にもこれ以上に良いものが有れば教えてほしいが出てくるだろうか?私は笑みを溢しながら期待をする。
この素材に実像を生み出そうという努力を刻む瞬間に全ての段ボールに実像を生み出す可能性が宿るのだ!これが新しい意味づけであり間違いなくハイデガーの述べる「開示性」であることに間違いはないだろう。
つまりこの様な人工的普遍性物質の上に絵画を載せることで振動の効果を際立たせられると考える。段ボールにニュアンスが瞬く間に広がりそれを恐れながら人類はこのカードボードと触れ合わなくてはならない。
意味が新たに見出された瞬間である。
この運動はコンテクストに閉じ込められた今の社会の固執を破壊するための新陳代謝として機能して良いはずなのだ。
しかしながらそれをいきなりは人は受け入れられない。70%の拒否と30%の同意とはよく言ったものだがまさしくこれはその範囲に収まってしまう出来事であろう。
今は固定物と流動性の移行への黎明期によりこの向かい風は一層力強く感じてしまう。
しかしそれで良いのだ。それでこそ"これ"をする価値が葡萄酒が醸す様に滲み出てくるだろう。酢になってはならぬがそれは限りない開かれた鍛錬と破壊によって回避可能である。
この運動は確かに私個人の到達点に見えるが、私へ多くの知を齎した友並びに対象によるものであるそれは同時に人類の到達点の一つともなる。
そして同時に今の方向性の限界点でもある。物質はその身を偽り我々の目をくらましてきた。だからこそその方向(物質界)から見た世界にはおそらく超ひも理論以上の観測をする事は不可能なのだ。
ひもをさらに推し進める以前にひもすら実態として確認するのは至難の業だという。
もちろんテクノロジーの進化は此処によるものであるのは当然であるが私は少しだけずらしておこうと思う(今後の為に)。

何をずらすのか。それは見方である。

この世界が成り立つのはまさに正当だと言う気持ちも承知ではあるがそれはまさしく虚像である。
事実社会は不可視且つ唯の概念故文字による象徴秩序のみの縛りになる。
確かに司法は事実人を動員して動きはするがそれには必ず限界があり全てをカバーすることも普遍的力になることも到底不可能である。
つまり我々の社会は社会という意識によってのみ成立しているのであり、それを理解しておかないと相当な遠回りと歪化した流れを使用しなくてはならない。この虚像を剥離することは可能で今後振動というものが今の物理学以上の意味合いを持ってしまうだろうという予測を話しているのだ。

気をつけて頂きたいのは、確かに私は超ひも理論や素粒子学などと言った現在ある物理学から着想を得ているのは間違いないが同時にニーチェのアカデミア(ソクラテス)以前の野獣的暗黒部位ないしは以降の暗黒部位が噴出した際の振動や思想も視野に入れて創作をしているというである。
現代科学によってのみ導き出された様な(閉じた)ものではないのだ。もちろん今の世に出ている知識を使用して最新(未来)の感覚を導き出すのはクリエイティブとして正当である。
しかしそれは同時に当たり前である。それに加えて過去に失われたものにも目を向けるという二重の損失にアプローチしなくては真の表現とは言えないだろう。
そして投企されたこの感覚によりテクノロジーの進化線をずらせることができる。それこそが進歩ではないだろうか?その一つとして挙げるのが周波数と磁気である。
私はこの要素も絵に含ませる様努めている。
今後明らかになるであろう流れとして人間の周波数と地球の周波数が同一であり、それが人の生命の基盤になっていること。
それを用いた様々な事物が出てくること。それもまた我々が陥る固定的観念から流動さらには周波数という「振動数」によるものへの証しとなる。
この様な今一般常識とされる知識野からのズレにある事物を再確認することは既存の予想限界点を回避することが可能なのである。
最初から今の観点を振動的にするという方法もあるのだがこれを言語化するのは私の役目ではなく私が信頼している哲学者および言論人に任せる。
兎に角私はするべきこととしてずらしというニュアンス変化(思考移動)を予期させることも含みながらそれがより早くやってくるために社会意識内に"表現(言語)"を注入することである。
これは言語を予測する形で汲み取れば必ず道が出てくる。
その道に長けたものが必ず言葉を生み出し転換が起こるだろう。それは最早誰にも止められない力となるのだ。当然
その反作用として現在は大混乱が起き始めている。
これはまごうことなき「終末」でありそれは人類が破滅するとかその様な表面的洞察では全くなくただ新しい時代(それは明確な変化として)が進んでしまうという証拠に過ぎない。
むしろ社会の形態は必旧共同体が綺麗さっぱり無くなると言った話では一切なく寧ろ多様化と細分化を繰り返しダウンサイジングの一途を辿るので種類自体は増えると思われる。
ただしそれは定かではないが。その様にして共同体が縮小し続けたらどうなるのか?それは0になりながら1になる。
これを団結的再共同と名付ける。
要するに全ての共同体の本質は何処にもないという気づきがある共同体が可能なのだ。
これは今後最も注目すべき動きなるのは間違いないだろう。
この様な流れの根底として流動化があり私はそれを使って表現をする。
ある種の鐘の様な役割なのかもしれない。
しかしながらそれは至ってどうでも良いといなのだ。
全てがどうでも良くなり実存しかないことを悟っているからこそ最も意味ある生命活動に従事できるのだ。
人は失って初めて理解すると金言があるがまさしくそれはイエスが最初から原罪を全て背負い償ってしまった様な感覚に近い。
最早償われた我々はまだあーだのこーだのと罪を重ねる。この矛盾に真の改悛がある様に、二つの矛盾(虚無と有意)を動機として存続させ且つそれぞれを作用させる。
私の提唱する不観測主義はその性質を意識の範囲で11個重ねている。

・写実と抽象
・男性と女性
・漫画と絵画
・個体と振動
・信仰と無信
・白色と黒色
・平面と立体
・視覚と失明
・社会と自然
・富裕と貧困
・時間と永遠

無意識下や別の観点からみれば増えるかもしれぬが、
この11矛盾を絵画に組み込むことは人間が認知可能且つ表現可能な2次元を11個重ねて折り込んでいくことで現れる私の絵の構造は、11次元内で統一的説明がなされる超ひも理論への作業工程に沿ったものだからである。
つまりは意味にも11の次元面を持たせたのだ。構造が疑似すればするほど本質の様態も似てくる。それは振動を起点としているからである。
定められた境界は人間の開示性のみの規定となり外れ、破壊され、諦められる遂に曖昧となり同一の地平が広がるのみとなる。

11次元に対する見方としてカラビ=ヤウ空間の広がりの図。実際はこうではないが、この感覚を持って対象見る訓練をしている。図に表すことで感覚を消失しかねない。感覚によって不確定となりそれこそがむしろ実像に近づく為の過程と私は考える。


振動によって我々に知覚された事象はそれを紐解いた場合性質と言える差異はその振動の振れ方の違いでしか無いからだ。
要するに構造(形骸)を同一にし且つそれを言語化可能な表現(部分化)出来る関係なら一緒の性質になりそれはイコールで結ぶことが可能だ。
ある種の梵我一如として全体(梵)にアクセスできているのを解した上で表現がなされている為である。
この全体且つ部分になる場合を鑑みられるのはもともとが全て意識内の話でしかないという発信点のもとであればより簡易的に可能である。

そしてもう一つ進められるとすれば、この梵我をとうた東洋思想にある。振動は物質的観点からみた最も最終地点である。しかしそれ以上は言及が不可能である。言及?言葉というものを当たり前に使用する我々は必ずこの言葉の限界を知る。先述の通り意味をずらしたり云々は全て脳髄という時間的かつ線形的思考法だ。それはロゴー(言語)の集積であるロゴスとして成り立ってきた。しかしそれは非常に西洋的進歩の歴史を歩みここまで来たが、もう一つ見なくてはならない観点がある。それこそロゴスの対義としてあった"レンマ"である。

レンマ(lemma)とは何か?

ロゴスを「言語による意味付けの知」とするならばレンマは「全体を俯瞰する直感の知」となる。

すなわち既存の言語認識事象を包括したもの=言語化不可の世界(万象)を感覚によって捉える事である。これはソクラテス以降の我々の"知"とは反対の発信点と構造を持つ。なのでまだ世には受け入れられる訳もなく、非常な危うさとしてロゴス認識されている。
その理由としてはまずロゴスから外れた場所からの思考であり、それは意味付けの過程を経ない。というより意味のつけられた事象の間にある小無限大を埋めるものであり、同時に全体の事象を包括する状態を見抜く(観する)という事である。
つまり明文化すればそればレンマの海から形成されたロゴスになってしまうためレンマは言説不可能である。しかし構造としては開祖ゴウタマシッダールダから始まった仏教より大乗仏教系の華厳経に記述されているのが旨である。それは中沢新一のレンマ学によって解説を施されており、すべての事象は縁起によって成り立っておりそのエネルギー相互作用は時空間を超越したところで行われている。それこそ相即相入と呼ばれる相互連関である。これが人の心を通して無から生起することで世界が構築される。だからこそこの世界はただのエネルギー流動=振動となるのだ。大乗仏教世界観は事象連関をはじめから確率として認識している。だからこそ個物が存在せず広大な連関を汎神論的な実としてとらえるのである。
これはイスラームのアッラーやユダヤ神秘主義の創造主の真の像とも共通点がある。彼らは人格神ではなく世界全体を一つとした絶対性に"契約"しているのだ。

だからこそ私はその実を実のままなるべく"新鮮に"取り出したいのだ。それこそが私の欲望であり野望そのものだ。しかし望んだ瞬間に、描いた瞬間にその実は姿を消す。

だから私は描かない!望まない!観測すらしない!

それこそ猫がペンキ塗りたてのベンチに足跡をつけるような動機の無さ。指向性の無さ。

偶然と必然の間。確率をそのまま持ってくるような無限。事事無碍法界の体得。

それを目指した先に出で行く真像の胎動。

それを描かず描く。

この様な飛躍を恥辱的詭弁と捉える声も遠方から聞こえてくるだろう。
しかしそれこそが狙いであると言うことだけは先に述べなくてはならない。
この反作用が不観測主義の意味合いを強めてしまう。人が一語、否、一意識にこれを出しただけで世界は変容する。それは人が持つ開示性と投企によるものであり且つノモスに生きる我々の使命である伝達という行為によるものだ。
デリダが差延を指摘したように私もまたその写実画の外に開かれた写実画を指摘していきたい。

上記から導き出された絵画手法及びその思考法を不観測主義と名付ける。その上で実像として表さんとする絵を不観測主義写実とする。

これは普遍性が限りなく消滅していることへの福音としてか、
はたまた旧時代に遺された断末魔に対する供養か。
それはこの絵を観測する者たちに任せるべきだ。描く者はそれに従事しそれによってのみ生命を規定すべきだ。
そのために私は最も弱く最も愚かに生まれ育ってきた。
今もそうだ。ルサンチマンと共に朝を謳い夜に自らを戒める。戒律など得ることすら能わず、ただ一人悔いるのみ。だがその前提こそ、進歩の土壌であることほど理解しているものはない。条件は哀しい程に揃ってしまっている。
この私の作業が人類に対する屈辱的欺瞞であれば喜んでペテン師にならねばならない。
或いは革新的進捗であれば涙を流しながらピエロにならねばならない。
私はこの仕事をしなくてはならない。
他の生を多分に羨みながらそして多分に蔑みながら。

パスカルが人をキマイラとし忌み嫌い讃えた瞬間はこの様な状態だったのだろうか。
狼が水を飲むところは人の自己表出のドグマにとどまるのだろうか。
世人のパノプティコンはこの球体を飲み込み且つ膨張している。
拡大した地平に気づかず我々は今日も自己を埋没させる。
そして、それら全てが全くの無意味性をもって自然(ピュシス)に嘲笑を受けうずくまる。
結局のところ言語による社会の構造に意味は最早ない。
0の上で踊ろうとする道化師を支える舞台は何処にあるのか?
ないのだ。何処にも。
道化師は、道具は、サーカスは、支配人は、客は、最早何処にもおらず何処にもいることとなる。
演目はとうの昔に終わりを宣告したにも拘らず私たちは未だ、そこに居る。
それを見つめんと苦悶する肉眼の恭しいことは血と骨を辱める。
しかしながら目にも知覚も今できない神的記述内に存在するもの達を待つのは野暮だ。
我々は進まなくてはならない。
それが例え無の荒野であっても
自らを称える。
人は逃走と闘争の為の生命活動を営む義務がある。

以上を持って最も非芸術的正統芸術である不観測主義は産声を上げ活動が開始された。
そしてその宣言として、

不観測主義写実は最も正統な流れを汲んだ写実画の形態の一つ

と私は再度主張する。
実像が振動する動きで有る事を示すことは人に流動することつまりは「矛盾化」を許す。
それを許した場合する自らを許容させることが出来ると確信している。
それは、より多くの人に自分が生きる事を許容する機会を増やす。
それは、許せずに行ってしまった人の為の供養である。
そのために私はこの不観測ゆえにより実像に近づいた写実画を描く。


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