本と相性の良いものを考える vol.6

本と学生

僕はこれを声を大にして言いたい。
特に若者に本を好きになってほしい。
僕の切なる願いで、僕が文章を書く理由だ。

僕が生まれ育ったのは新潟県新潟市。
2016年に高校に入学した。
まだ、ガラケーが主流でケータイで楽しむコンテンツと言えば音楽を聴くこととメールくらいしかなかった。
今みたいにきれいな写真を友達とシェアしたり、音楽に合わせて踊ったりすることはなかった。

その時は爆笑できることが大事で、おしゃれな雑誌に載ってる服を着たり、可愛い彼女を手にすることを幸せだと感じていた。
自分の幸せを測る尺度は他人と比べて恵まれているのかそうで無いのかただそれだけで、本を書いて誰かに想いを届けたいとか、自分の考えをまとめることを幸せだとは思えなかった。

「お前彼女いないのかよ。寂しいやつだな。」
「良い大学行けなかったら人生終わるよ。」
「お前がやりたいことなんて全然大したことないよ。俺の友達の方がすげぇから。」
周りにはそう言う友人もいた。

「お前のやることに意味なんかないんだ。やめとけって。」
と断言する輩までいた。

幸せとか、正しさとかを自分の中で判断するのではなく、自分ではない誰かに証明する為に生きていた。
ほら、俺は間違ってない。お前らより俺の方が幸せだろ。
って。僕はおんなじ事を他の人にしていたかもしれない。

一方で、どうしても変えられないものがあった。
僕の家はキリスト教徒だったし、標準的な家庭環境は決して裕福な方ではなかった。
得意だったバスケも県全体で見たら上には上がいて一番になんてなれなかった。

自分にできることなんてそんなになくて、たまたま与えられた環境の中でベターな選択をするしか無い。そんな思いが募り、夢を見ることに現実味が湧かなくなった。
小さい世界で、足りないものだらけの僕が想像できることしか選択肢に入らなくなっていった。

そんな時に
高野秀行氏の"早稲田三畳青春記"
という本を読んだ。

その本はまさに、心にたれ込める雲間から差す一筋の光りだった。
まとわりついていた煙がさっと引いたように、蛇行した道を抜けたように視界が一気にひらけた気がした。

できないと考えたのは誰か。
他人なら阿呆らしい。自分なら尚、阿呆らしい。
その本を読んで僕はそう思った。

そして、とにかく爽やかな本だった。
季節でいうと春。ようやく何かが始まる気がして体の奥底からわくわくがにじみ出るようなそんな感覚を味わった。

何をやろうが自由、何をやらないのも自由。
やる前にできないと決めるのも自由。
やってみてから、何ができて何ができないのかを判断するのも自由。
東京の大学に行こうと思った。

本は、時間も距離も価値観の違いも
筆者と読者の間に存在する障害の多くを取り除いて情報の伝達を可能にする。

人の考えを、人生観をインプットし
自分のペースで咀嚼し、血肉へと変えていくのには本が優れていると思う。

若い人こそ、多くの選択肢から自分の通る道を判断してほしい。
それは、「これしかないから」という消極的な判断ではなく「こんなこともあるかも」という積極的な希望。

本に親しみを持てるような方法を考えていきたい。