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【長編小説】分岐するパラノイア-schwartz-【C42】

<Chapter 42 陸の孤島 >


 エビグラタンとラザニアを食べ終え、食後のコーヒーを音を立てて啜りながら私たちはざっくばらんに世間話をした。この店に入ってから一時間がたとうとしていた。私は江田との世間話は好きだ。博識な上、思いもしない話題やコメントが飛び出し楽しい。しかし今日はそうでもなかった。
江田の話題のせいではない。
頭の、たぶん一番広い領域にぽつんと置かれた黒い箱のようなものを感じる。その箱が何かを知っていて、さらにその中身も知っている。
自分の過去と、那実に自殺の理由だ。分かってはいるが怖くて開けられない。まるで夜中にトイレに行けない子供のような気持ちだ。

 自分の過去に齟齬があることは江田には話していない。たぶん江田は興味がないだろう。江田はもともと他人に興味を示すことが少ない。それでも私には砂つぶほどの興味を示してくれている。訳のわからない話をして幻滅されたくはなかった。この手の話は人を選ぶ。

「江田さん、さっきのテセウスの船の話、正解ってあるんですか?」
「正解?ないんじゃないか?こういう話は答えを出すんじゃなくて出すまでの考え方を鍛える話なんじゃないの?」
私はテセウスの船が気になっていた。もし答えがあるなら聞いておきたかったし、江田ならでわの答えも知りたかった。
「そうなんですね。江田さんはどう思いますか?あの船、新しくなった船はテセウスの船だと思いますか?」

「どっちでもいいかな」
江田は机の上の伝票を手に取った。江田はお尻のポケットから財布を出した。江田との食事はほとんどが江田の奢りで、今回もそうだった。
丁寧にお礼を言って店を出た。
江田は何かのクーポンをもらったらしく使わないからと私にくれた。

 江田とのランチのあと、私は原谷がいる店舗に戻りいくつかの確認をした。人員以外に何が不足しているのか、何が滞っているのかを明確にしておきたかった。江田はランチのあと原谷のいる支店には戻らず、本店へ戻った。江田は体格に合わないほどの大きな車で帰っていった。
原谷に会わずに帰る理由は——原谷はおれがいると萎縮する——
からだそうだ。

 江田を前にして萎縮しない人間はいない。私はそうではないが。
周りから江田の腰巾着と思われているほど一緒にいる時間が多いからかもしれない。江田と感覚が似ていて江田の言うことはほぼ理解ができる。他のスタッフは江田の言うことが理解できないでいるし、江田の発言自体を怖がっている者もいる。もちろん江田が私を必要としているわけではない。
江田を必要としているのは私の方だ。

 他のスタッフに一番迷惑がられているのはほんの数分前に指示したことや決定したことを簡単に覆したり、反故にする癖である。
要するに言っていることがころころ変わるのだ。でもそれを私は難なく受け入れることができる。それは江田の指示が変わるということを身に沁みてわかっていることと、物事自体も常に変化することもわかっている。私から言わせれば究極の臨機応変さを備えていて、対応力が常人のはるか上にあるからだ。江田のすごいところは、自身が出した指示や決定を簡単に覆したり、反故にする場合も代替案が複数あり、それに向かう行動力もある。さらに常にそのリスクマネジメントが完璧なのだ。

 私は感覚が似ている江田のそういうところを余すところなく吸収していった。やはり側から見たら腰巾着、金魚の糞、愛弟子といった具合に見えるだろう。私がそれを何とも思わないのは明らかに他のスタッフよりもうまくやることができていたからだ。私からすれば、何もできないことや臨機応変さのなさを人のせいしているようにしか感じなかった。

「久馬くんが戻ってくれて助かったよ。不甲斐ないけどこの店舗はもう死に体だ。ボクもそろそろ進退を考えなきゃいけないと思っていたんだ。
でも久馬くんのおかげでなんとかなるかもしれない」
原谷は安心したというようなことを言ってはいるが、顔つきはまるでそうは言ってない。もう何をしたって無駄だ、そう言わんばかりに目は虚だ。
「原谷さん、ちょっと聞きにくいことを聞いてもいいですか?」
私は挨拶回りをした時から不思議に思ったことを聞くことにした。

「そもそもこの店舗は私が以前働いていた時につくった店舗ですよね。
原谷さんも店舗レイアウトで手伝っていました。この店舗が完成した後私は退職しました。まず聞きたいのは、私が退職したあとこの店舗はどういうふうに流れたんですか?あまりにも私たちがつくった時と現状では雰囲気が違いすぎます」

一応オブラートに包んだつもりだった。私が以前働いていた時にこの店舗は作られた。レイアウトを考え、スタッフの手でできることは極力やった。
日曜大工のようなこともして作った店舗で、開店当初は明るく活気のある店舗だった。それがなぜこんなにも不幸のダイオキシンが充満してしまったのか。そしてもうひとつ、気になることがあった。

「久馬くんが退職したあと、体制が変わってのは聞いているよね。それでけっこう会社全体がギスギスし始めちゃってね。この店舗でもそういう嫌な雰囲気が広がってね、もともとこの店舗は固定の人員がいなかったんだ。
ボクも当時は本店とこの店舗を行き来していた。だけどボクには二店舗を考える余裕がなかったんだ」

「それは江田さんも関係していますか?江田さんの指示ややり方が厳しすぎました?」

「それもある。あるけど江田さんは売上をあげるためにやっていることだからね。結局はボクの力不足なんだよ」

「原谷さん、この店舗への常駐を志願されたと聞きました。どうしてですか?この店舗は他のスタッフからは《陸の孤島》とよばれているそうですね。二店舗を行き来していた時より給料も下がったと聞いてます。
《陸の孤島》とよばれ、給料も下がるこの店舗への常駐を決めたのはなぜですか?」
不幸のダイオキシンの充満ともうひとつ気になったことは、なぜ原谷が自らこの《陸の孤島》へ志願したのかだった。
この店舗がある地域はそれほど本店からは離れていない。
本店から距離があり、本当に《陸の孤島》とよばれるべき店舗は別にある。しかしこの店舗は《陸の孤島》とよばれ、他の店舗のスタッフの左遷場所、島流しの場所となっていた。そしてここに流されたスタッフは理由はどうあれやめていく、ということを事前に聞いていた。

「ボクはね、体制が変わって役職が明確にされてみんなが出世しようとする空気が合わなかったんだ。出世は悪いことじゃないよ。若い人はどんどん出世して稼いだ方がいい。でもボクはもういい歳だ。若い子を押しのけてまでする出世に興味はないよ」

原谷は三十代後半で、もうすぐ四十になる。まだまだ出世を目指せる歳ではあるが、これがこの業界のデメリットでもあると思う。
商品が若い子向けのものが多いため歳をとると理解が難しくなる。
相当知識と好奇心がないと厳しくなってくる。
江田のように何にでも好奇心を持つ性格でない限りは。

「それにいろんな企画やイベントだってボクが考えるものは一般的でつまらない、どこかで見たことあるものしか考えが浮かばない。上に立ってそういうつまらないものを無理矢理やることなんでできないだろう?それよりも個性的で斬新な企画やイベントを発案できる若い子が上に行った方が会社のためにもいい」

「それで原谷さんはこの《陸の孤島》への上陸を決めたと。出世争いをしたくないからこの店舗に閉じこもることにしたんですね」
流れで少し言い方が悪くなったことに気がついた。これ以上この話は控えることにした。
それから原谷と業務関係の諸連絡やたわいもない世間話をして《陸の孤島》とよばれる店舗を後にした。

私はこの《陸の孤島》に流れ着く船を想像した。
その船には原谷が乗っていて、虚な目で島を眺めている。
江田は私をテセウスだと言った。原谷もまたテセウスなのかもしれない。
英雄になりきれなかったテセウス。
古都アテナイではミノス王の命令でミノタウロスへの生贄として若者を捧げるよう強要されていた。
テセウスがミノタウロス退治のため自ら生贄のひとりとなってクレタ島へ向かったことを私が知るのはもう少しあとだった。

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