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町田康「告白」を読みだした

ああ、なんか暗い自分。こんな時は好きな作家の本を読むなどして。と思い満を持してあれを読む。町田康の「告白」である。「告白」は町田康を代表する大長編小説と言われ、平成の30冊にも数えられ、これを読まずして町田康を好きなどというなかれと言ってもいいくらいの小説だ、とえらい批評家の人がいかにも言いそうな一冊なのである。

これを私はまだ読んでいなくて、買ったきり大切にブックカバーをかけて決して娘の手が届かない本棚の一番上の、玉座にしばらく祀っておいたのだが、小説というのは読まねば意味のないものであって、祀ってもなんもならない。ていうか単純にあの大物を読むにはまとまった時間が必要だから今読み出すのはどうか?じゃあいつだ、来週ならいいのか、などとウニャウニャしていたため時期を逸していたのだが、なんだか精神のヘタれている今こそ!読むべき時!と思って手に取ったのが一昨日の事。

やっぱり町田康は素晴らしいな。1ページ目からして笑ってしまった。ページを開けた瞬間に、内面のことでうじゃうじゃ悩んでいること全部を、滑稽なことよ、おほほん。と一蹴してくれるところがいい。

まだ4分の一くらいしか読んでいないけど、今の所主人公は、頭の中で思っていることと、それを発露するための言語が一致しないため、なんか周りから勘違いされたり、アホと思われたり、望みもしない暴力に晒されたり晒したりしてぐっちゃぐちゃなことになっている。

内面と行動の一致、それは難しい。水中、それは苦しい。
でここへ来て思ったのは、町田康を読むと、私の頭の中が急に饒舌になる。これが面白くて町田康を好きなところもすごくある、と思った。もう一人、読むと頭の中が饒舌になるのは菊地成孔なのだが、この二人は語り方も使う言葉も全然違う気がする。一体これはなんだろうなあ。誰しもそうなるものなんだろうか。それとも私の中の何かが響き合ってそうなるのか。もしも私の中の何かがそうさせるのだとしたら、それは一体なんなんだろうか。

「告白」に関していえば、これはバリバリの河内弁…に当たるのかどうかは河内弁を知らないのでよくわからないけれど、かなりドスの効いた大阪あたりの言葉で語られています。そうなると、私はバリバリの関東生まれであり、方言もあるけれど、地元のじーばーの話す言葉はよくわからない。自分の父母はあんまり方言使わない。自分の夫は方言使ってるけど、たまにニュアンスがわからない。というような状況なので、きつい方言同士響き合っているわけではないと思う。関西弁に対する憧れとかも、まあなくはないけどそんなにないと思う(京都の友達が使っていた「あんねんやんかー」という言葉は今だにいいなあと思うけど。独り言のような同調を求めるような微妙な力加減がなんともいい)。

でも、町田康を読んだ直後の脳内は、結構荒っぽい口調に変化してはいる。関西弁というより町田弁。町田弁は、脳内のおしゃべりをすくい取るのにとっても適している。いつもだったら、ん?私今なんか一瞬迷ったけどなんだっけ、とすぐに通り過ぎてしまうようなどうでもいい心の声を、町田弁は容赦なく拾う。わちゃ、今一瞬毛剃らんと、とか思ったけど剃ったとしてなんなの、剃っても剃らなくても誰が気にするというの。旦那? そこらの通りすがりの人、あるいは職場。はん。知らん、剃りたきゃ剃ればいいし、今剃らないのは誰のためっていうかめんどいからでしょ、っていう自分の弱さを一瞬で直感できないたわけ。それは私。ていうか服着よ。みたいな感じで、ずっと脳内がダダ漏れみたいになる。これが町田弁の効果で、ずっと町田康を摂取し続ければすっごいおしゃべりになれるじゃんとか思うけど、これは脳内を語る言語なんだよねえ。これらを社会的に通じる言語に変換しておしゃべりしないと、それこそ熊五郎(「告白」の主人公)状態なわけで、でも、とりあえず脳内がおしゃべりだとすんごいスカッとする。だから気持ちがいい。ということで、これよりしばらくの私は、脳内はずっと喋っておりますが外面はいたっていつもの通りぼさっとしております。

町田康は、真面目な人のための不真面目文学だと思う。
私は不真面目なものに感応しやすい真面目人間なのかも知らんね。知らんけど。

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