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生産性のない一日の最後に何かを生み出そうと足掻く。

朝起きて、服を着替えて洗濯をして朝ごはんを食べて弁当を作っていた日々は遠い昔のような気がする。とはいえ今でもまだ、「人間らしい」生活を送っていたはずなのに、なぜか今日はひたすらベットから動けなかった。今日が久しぶりに予定のない休日だったからかもしれない。

予定が詰まると死ぬくせに、予定がないと生きてる心地がしなくて自分から気付いたらやることを求めにいってる。きっと悪いことじゃないんだろうけどいい加減自分のキャパを弁えろとも思って自己嫌悪に至る。

何もしたくない人なりに何かしなきゃという気持ちはあるもので、とりあえず外に出ようと服を身につけ、ポケットにスマホと家の鍵だけ突っ込んで家を出る。外に出て少し行ったゴミ捨て場を見て、玄関にゴミ袋を置いてきたことを思い出す。あー玄関臭くなるとため息をこぼしつつも、取りに帰ったらもう今日は外に出ない気がして諦める。

家の周りをあてもなく歩くのは引っ越してきたばかりの頃以来だということに気付いて、今まで気分転換の散歩でさえ行先という「目的」を持って行動していたのかとつくづく自分のことを気持ち悪く思う。というか、引っ越してきたばかりの頃は単純に自分の街にどんなものがあるのか、スーパーまでの最短経路はとか、そんなことのために歩いていたんだからやっぱり「目的」はあったのか。
いつだったか、仲良くしてもらっていた先輩に
「何にでも意味や目的を持つことは、否定はしないけど、でもそれってなんかしんどくないの?」
と言われたことを思い出した。そこから、休むときには目的も意味もないことをしようと決めていたことも。

今住んでいる場所は坂まみれで、かつとても入り組んでいて、私が育った平坦で京都ほどではないけどある程度道は東西南北にまっすぐ伸びている街とは大きく違う。
住んでいる人の種類も違う。大きすぎる家々を一つずつ見ながら、私にはこんな家は一生手に入らないような気がしている。家の前には玄関とは別で門があったり、複数台車が停まっていたり。家の中からはピアノの音がして、家の前の道では父親と思しき男性が小学生くらいの子とサッカーをしている。犬の鳴き声がして、おしゃれな装飾のついた表札があって。

そんな中突然、おんぼろなアパートに出会ったりもする。学生向けの賃貸なのかなと思いながら、通り過ぎ様に見た駐車場には4がなかった。

さっきの情景はなかったかのように、また大層な一軒家が続く。家の前に座り込んで一つのゲーム画面を4人で覗きこんでいる女の子たちに、少し羨望の目を向ける。
立派にたなびく鯉のぼり。
螺旋状の立派な外階段。
毒々しいほど立派な紅い薔薇。

かと思えば、突然現れる、木々に覆い隠された崩れかけの家。
落ち着いた色合いの家々の中には似合わない、間に合わせのような真っ黄色の勝手口。
色あせて「    はやめましょう」と、赤かったであろう文字が消えてしまった公民館の看板。

子どもの声がいつも響き渡っている大きめの公園を通り過ぎて坂を少し上ったところで、突如小さな公園に出くわした。家と家の隙間を埋めるために作られたような公園だったけど、ちゃんとすべり台やベンチがあった。車の音は時々聞こえるけど、基本的には木の葉が風に揺れる音とスズメの声しか聴こえない、静かな時間が流れている場所。
Googleマップを開くと、どれだけ拡大しても何もないただの空白地帯で、どうやら地図に載っていない場所を見つけてしまったようだった。満足したので今日はここをゴールとすることにして、ベンチで考え事をすることにした。

この街は明らかに綺麗だし、子どももそれなりにいそうだし、だけどどこかひとけがなくて気味が悪い。引っ越した当初はあまりに街が静かすぎるからかと思っていた。
だけど今日歩いてみて、ちゃんとここで暮らしている人はいることが分かって、尚更気味が悪くなった。なんというか、ちゃんと生きている「人」はいるけど「足音」はしない、みたいな感覚。

「当たり前」となる文化は街で育まれていく。習い事をするのが当たり前で、庭の草木の手入れをするのが当たり前で、犬の散歩をするのが当たり前で、車を持っているのが当たり前。
それが悪いわけじゃ全然ないけど、でもこの街ではある種の「それが当たり前」の空気感が充満しているから息苦しいのかもしれない。様々な色や形で個性を出したつもりの家々だけど、どこか画一化されていて一定のラインを持っている。
私はここで育つわけでもここで「当たり前」を育むわけでもないけど、でもどこかで私のような貧乏学生はこの街にはいないことになっていて、その他にもいるかもしれない「この街の当たり前」を手にすることはできない家庭も存在しないことになっているのが虚しかった。

学校に行ったわけじゃなく、インタビューをしたわけでもなく、ただ街を歩いただけだから完全に私の主観だけど、この街への違和感というか馴染めなさを再確認してしまったようだった。
帰り道はGoogleマップを使わなくても知らないうちに大きめの道に出たからすんなり帰ることができた。街には馴染めなくてもここが「家」にはなったらしい。

何もすることができなかった日でも、最後くらい何か進捗を生みたいと思ってしまうらしい。空が明るくなるのを感じながらまとまりのない文章を供養することで、今日も生きて何かをしたんだと爪痕を残そうと足掻いてみる。


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