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乳と卵

■書籍名 乳と卵
■著者  川上未映子
 本書で描かれている母子家庭のような親子は現代社会において割とどこにでもいる親子だ。離婚が原因で生活水準が下がり、当座の生活費を稼ぐために母親が水商売に行き着く。生活していくお金は手っ取り早く確保できるが、夕方から夜にかけて母親がいない自宅で子どもが毎日一人で過ごすとは、子どもにとってはどのような心境なのであろう。本書の母子家庭では、母親(巻子)が豊胸手術に夢中で子どもを顧みない状況下、子ども(緑子)は母が自分のことを疎ましく思っていることを察していることから始まる。そのため、緑子が自覚的かどうかはともかくとして、おそらく母の注目を自分に向けるために半年間も筆談しかしないのである。声を発しないということは、身体的にはとても辛い辛抱であると思う。でもおそらく発声による巻子との会話では、巻子が緑子に顔を振り向けて聞くという態度をせず、さらには子どもよりも豊胸手術に夢中で話すら聞かず、ということの日常の繰り返しであったのであろう。緑子は自己肯定感をあまり持てずに自分の存在についてまで懐疑的となっている。哲学的な存在論などの概念を知らない小学生がそのような懐疑的な心境に到達するということは、家庭内で自分の居場所が揺らぎ、生きることの意味が問われ、自分で自分の存在を再確認しなくてはいけない環境が揃っていたと考えることが妥当である。そんな中で、手記ノートを使ったコミュニケーションは、「口を噤む」という行為が母に対する子どもの反抗的メッセージとして有利に働くとともに、「紙だと母が私のメッセージを見ざるを得ない」わけで、同時に、母に自分の「声」を届けるための手段となりうるである。
 緑子が生理の現象に興味関心が湧く思春期のはじめ頃である様子と、伯母「わたし」にとっての生理は日常である。緑子が生き生きと生理について手記ノートに綴る一方、「わたし」の生理は単なる日常の排泄行為と同等扱い。両者の生理に対する対比的な関わり方を通して、人が生きる意味を問う以前に人は「すでにして生きている」ということが自ずと前景化されてくる。特に、「わたし」の生理は自分の意思にかかわらずおとずれるまさに「生理現象」であり、哲学者國分功一郎のいう「中動態」で表される、意思と責任の伴わない動的現象である。受動態でも能動態でもない。
 本書における生理の描写は、男性には絶対に表現できないような生々しい内容となっている。文学的表現がもとめられるであろう文壇において、ここまで細かい描写を試みたのは、偶像的に崇拝されがちな女性像に対し、生々しい一面を表現することでそのような女性像を虚像化させようとする、ある種のフェミニズム的な主張という側面があるのかもしれない。いずれにせよ、この生々しさがいちいち、「人は生きる意味を問いただす以前から生きているものである」という、「生物としての人間」から「都市の中の人間」への身体性の回復の必要性を訴えかけている印象を与える。
 物語終盤では、一人で出掛けた巻子が遅くになっても帰ってこず、緑子は自分が捨てられていると確信的に感じている様子で、でも同時に、そのような「幼い」母のことが心配で気にかけている。そしてとうとう、帰宅後の母巻子に対して、地声で叫ぶのである。「おかあさん、ほんまのことを、ほんまのことをいうてや」
 半年ぶりの発声である。本当はわたしのことをいらない存在だと思っているのではないか。私がいなければ、お母さんはこんなに苦労しないのではないか。でもなぜそれを自分に直接言わないのか。態度はそう言っているじゃないか。態度では示すけど言葉では言わないチグハグ感。緑子のような少女期に、そのようなダブルバインド状態に置かれることは、精神的な整理がつかずたいへん不健全な状態である。
 しかし、「巻子も緑子も今現在言葉が足りん。ほいでわたしにも言葉が足りん。」と「わたし」が思うように、まさにこの物語の登場人物は、自分の気持ちを言葉にする力が圧倒的に足りない。言葉の不足によって自分の感情すらまともに表現できず、お互いの意思疎通がうまくいかないほどに語彙が少ないのである。「責任を痛感」しているのに決して職を辞さない者、「募っているが募集はしていない」と屁理屈を述べ立てる者など、言葉が大切にされない現代社会を象徴するような母子家庭。その象徴としてのエンディングは、冷蔵庫から生卵をとり、緑子も巻子も自分の頭にぶつけ続ける様子に現れている。言葉による感情表現がままならず、とにかくその代替手段として卵を頭にぶつけ続ける。滑稽な様子ではありつつ、親子で同じようにぶつけ続けることが、母と子の和解の象徴として描かれている。同時に、「卵の無駄遣い」は毎月排卵され続ける「卵子の無駄遣い」としての生理を象徴化している。そして、母から必要とされない緑子は、その母の数少ない無駄にならなかった卵子によって生まれてきているという、生物としての人の営みの中の一人であることが、くっきりと描かれているのである。

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