見出し画像

イジメや虐待 VS あなたとミーム(私たち)4の2 今のイジメと虐待の事情

前回の「イジメや虐待 VS あなたとミーム(私たち)」「4の1」の続きになります。

 今のイジメと虐待の事情


「虐待」による子供の死亡例が年間に50例、1週間に1人の子供が家庭による「虐待」で命を落としています。


子供の「虐待」に対する相談件数も年間約20万件にもなり、その上、ここ10年間で、家庭における児童虐待事件は大きく増えているということです。


一方、「イジメ」については、年齢世代も関係なく、学校であろうと、職場であろうと数えきれないくらい発生し、これらの「イジメ」「虐待」を経験している人ほど、繰り返し様々な形で「イジメ」「虐待」を身近に感じる続ける生活を、余儀なくされるというデータもあります。


様々な社会環境の変化により、大人一人にかかる子育ての負担が増え、尚且つ、「体罰の禁止への法改正」によって、体罰の禁止事項が明確化されたために、普段なら問題にならなかった様な事件や事故も表に出てきたという事もあるのでしょう。


その中で、ある程度は予想はできましたが、「虐待」に関していえば、実際の直接の加害者の多くは「被害者の実の母親」ということでした。


ただ、この事実は、現在の格差社会とジェンダー差別の中で、「子育て」「仕事」という非常に「大きなプレッシャーを抱えている母親」からの日本社会への警告になっている一方で、テレビやニュースから流れてきている「視聴率に絡めた誘導」に近いメディア側の意図もうかがい知れます。


その為か、ニュースから流れる虐待の原因の多くは、「母親とその恋人」や、「再婚相手」からの「虐待」が行われるイメージが多いように思われます。


しかしながら、本当の原因としては、「望まない妊娠」「子供に到底愛情を注ぐことができない」「ストレスがたまりやすい」「元々攻撃的な性格を持っている」というものが主流になっているということです。


それは、子供の母親と同じ位、いやそれ以上に「実際の子供の父親」の責任が、非常に大きいことを意味します。


なぜなら、このような場合に多く当てはまるような、「極めて若い母親」が妊娠してから出産して、子育てをする過程で、彼女達は一切逃げることができずに、現実と向き合わなくてはいけない反面、その父親は、当然、妻が妊娠している間の苦しさ、誰にも相談できない不安やさみしさ、子供ができたあとの生活を含めた絶望感などを母親1人に押し付けるような無責任さから考えても、もっと「大きな責任」を感じなければいけないのに、現実から逃げている人が多いように思えます。


ですから、少なくとも、「ある一定機関の幼少期の子供の育児」に関しては、もし、事故や事件が発生するような場合には、事件を起こした親と一緒に、事件に直接かかわらなくても、もう一人の親にも「一定の責任や義務」を問えるようにするべきです。


例え、どのようないきさつがあって離婚していても、彼らの子供にとっては全く関係なく、状況的にも、権利的にも一番「声にならない声」を聞くことができるのですから、「勇気と温かい愛情」で、子供たちの「命の叫び」をしっかり感じないといけないと思います。


確かに、「自分一人で育てる」「誰にも世話になりたくない」という人で、実際に、立派に仕事と子育てが両立できる人もいると思いますが、決して、「そのような人ばかりじゃない」ということは理解しないといけないと思います。


事実、「虐待」が原因となったことで、「子供の肉体的、精神的成長に極めて大きな問題」を抱える事にもつながります。


又、その中で育った子供たちや、仮に「肉体的な苦痛」は無くとも、「精神的苦痛」だけを長く受けて育った、「見えない虐待の犠牲者たち」が、徐々に大人になり、社会のコミュニティーの在り方にも大きな影響を及ぼす場合もあります。


特に、子供の頃に「愛情を感じずに育った大人」たちの中には、どのようにすれば、自分の子供に愛を伝えることができるのかを知らない人もいるそうです。


大切な人との「時間・空間」「共有・共感」だけでも、その子育てにおける重要な役目を果たしてくれることすら知らないということです。


ただし、当の子供たちは、まず「一緒にそばにいて優しく抱きしめてもらう」ことを強く望んでいるのです。

「安定した衣食住」「時間・空間」「共有・共感」でも、人間は、十分に愛情というものを感じだすようになっているからです。


又、今の子供たちの「幼少時からの受験競争」などは、今の「いじめの低年齢化」を招く原因にもなっていて、極めて「大きな精神的苦痛」を生む「虐待」になっているという報告もあります。


ただ、スポーツの英才教育や受験勉強を全く否定しているのではありませんが、それなりのフォローも十分にしてあげながら、子供たちの「心の成長」にも配慮すべき時期に来ているのではないでしょうか?


「お前は何ぜそんなに出来が悪いの?」


「○○ちゃんは、あんなにできるのに!」


って、度々家族紛争内で聞こえる会話の一つにもなっています。


子供なりに一生懸命頑張っているのに、それに「リスペクト」を全く感じることができない、本当にひどい親の見本だと思いますし、「精神的な虐待」の典型だと思います。


このようなことは、子供の「情緒不安定」「強い攻撃性」「自己肯定感の低下」を招き、家族や社会全体の「コミュニティーのバランス」が崩れるというケースが発生して、最終的に社会に、「虐待を受けやすい環境」「虐待をしやすい親」「イジメを生み出しやすい社会」「イジメや疎外感を生み出す雰囲気」を生み出してしまうということです。


そして、これらの多くの「虐待」には、先ほど言った「やっている側の勝手な精神的開放の欲求」の連鎖という加害者がもたらす「ボトルネック」を通して、同時に新しい被害者の「声にならない声」を生み続けようとします。


そして、気が付けば、同じ仲間同志で「イジメや虐待」「破滅的ミーム」として、「共有・共感」してしまっているということになります。


「イジメや虐待」の加害者は、普段の自分を装いながら、陰で悪知恵と非道な行為を駆使して、自らの精神的、肉体的開放の為の「生贄」をこっそりと探し続けています。


その「生贄」にされる被害者の子供たちは、あたかも地下に監禁されているように「声にならない声」を発するようになるのです。


そして、被害者である子供たちにとって、
「誰も助けてくれない」

「自分の親に言っても全く同じ」(「虐待」の加害者は、自分の親である場合も多い)


「何をしても、何も変わらない」と誤解しています。


前回ご紹介させていただいた「52ヘルツのクジラたち」の作品には、この「声にならない声」というメッセージが非常に切なく表現されています。


元々、この「声にならない声」の語源は、サイレントマジョリティーとして、「静かな大衆」「もの言わぬ多数」という意味で、特に「政治の世界」で利用されていました。


つまり、「口には出せないが、心の中に強く思っている意見」であったり、「声にあげなくても、社会を選択できる強い意思」だけでなく、本来は声を上げる「権利」があり、大人や社会はそれに耳を傾ける「責任」があり、「イジメや虐待」のような状況から全ての人が解放されるべき時に使う極めて強い言葉です。


しかし、今の「イジメや虐待」の時に使う「声にならない声」とは、自分の今の状況から逃げないといけないのに、いつでも逃げていいという意識すらないということの「声にならない声」なのかもしれません。


又は、その「声にならない声」を感じ取っているにもかかわらず、知らないふりをしたり、その上、多くに人にとって、他の家なので介入しないでおこうという敢えて「聞こうとしない声」なのかもしれません。


「お互いのプライベートを守ろう」


「他国や他の組織のルールに従っているだけ」


「本人がそれで納得しているからそれでいい」


などとも同じになります。


時には、「声にならない声」を出そうとしている人に対して、プレッシャーを与えるような場合さえあります。


「イジメや虐待」とは、されている本人にすれば、他の国で勝手にやっている「戦争や強姦」と同じ、ブラック企業で摂取されている「パワハラ」や世界中の大企業の陰で行われている「ジェノサイド」に近い強制労働とも同じです。


何度も、何度も、何度も世界中で同じことを繰り返すのです。


そして、実は、「イジメや虐待」は世界中の共通した大きな問題にもなっています。


当然、多くの独裁的な国家に染み付くような「イジメや虐待」だけでなく、特に、ダイバーシティーや移民政策をとっている国家にとっても、「イジメや虐待」の問題が大きくなって、最悪な国際テロのきっかけになっているということです。


それでは、一体どうしたらいいのでしょうか?


他の国で、どこかうまくいっている国はないのでしょうか?


やはりこの点は、先進国であるスウェーデンはさすが!


しかしながら、そのスウェーデンも、実は「イジメや虐待」が初めからないというわけではなかったようです。


それでは、どのようにしたのでしょうか?

本日は、ここまでになります。

次のスウェーデンの社会は、どのように「イジメや虐待」を克服したのでしょうか?

POSSVI PENE


今、日本の社会にある様々な歪を改善するための事業や活動をしています。具体的には、あらゆるクリエイターや基礎研究者の支援や起業家が生まれやすくなる社会システムの準備をしています。どうか御支援よろしくお願いいたします。