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よく見る反出生主義Q&A

はじめに

個人的によく見る(気がする)反出生主義に関する問いと、それに対する返答(の中でも個人的に腑に落ちたもの)を、私なりの伝え方でアーカイブしていきます。

なお 反出生主義について解説するサイトは既に多数存在するため、ここでは詳細な説明は省きます。
ここでは簡単に「(おもに道徳的観点から)子どもをつくる行為は制限すべきだ」とする主張です、とだけ紹介しておきます。
またその制限を人類全体に広め、今後一切の子どもが生まれない状態を目指すものである、ということも 付け加えておきます。

●命を尊いと思わないのか。

反出生主義者は個人の命を尊んでいます(少なくとも設定上は)。
個人の意識・人格の存在を尊んでいるからこそ、今生きている人が死んで意識・人格を失うのは良くない、とする場合が多いです。

しかしながら “苦痛を未然に防ぐ手段”として初めから出生させないことについては良い、と唱えています。

「尊いのならなぜそれらの発生を差し止めようとするのか」といった反論も考えられますが、「尊いからこそ無闇に生み出して苦しみの中に投じたくない」のでしょう。

一方 個人の命を尊ぶためには 人類という種の存続は度外視しても良い、と考えているのも事実です。

●生きていれば良いこともある

その通りで、生きていれば良いこと”も”あります。
”も” というのは、良くないこと が起こりうることを 認めざるを得ない、ということではないでしょうか。
(割とこの言い方をよく見かけるので、あえて言葉じりを捉えています)

反出生主義が問題にしているのは、「生まれてくると良くない事が起こりうる(良い事ばかりではないし、良い事がどれだけあるかも保証できない)」という点だと思います。

そのような場合、本来ならリスク説明や意思確認が必要です。
出生においては、当然それらの説明や意思確認は原理的に不可能ですが「不可能だからしなくていい」という暗黙の了解に対して異を唱えているのだと思います。

●子どもの 生まれる権利 を侵害しているのではないか。

産む権利 についてならまだわかりますが、「生まれる権利」は考えない方が良いかなと思います。

その理由は、「いかなる時に生まれる権利が侵害されるか」を想像してみると分かりやすいのではないでしょうか。以下に例を挙げます。

・あなたが誰かからの性交渉を断った時、その性交渉により生まれるはずだった命は生まれる権利を侵害されたか
・あなたが子どもを作りたくても経済的事情から断念した時、生まれるはずだった命は生まれる権利を侵害されたか
・一人目の子どもがいるのに 二人目の子どもは作らなかった時、二人目の子どもは生まれる権利を侵害されたか
・ある主義に基づき子どもを一人も作らなかった時、誰かが生まれる権利を侵害されたか

●母親が子どもを産む権利 を侵害しているのではないか。

確かに、侵害するでしょう。
それを「ある人が生涯苦しんだり死んだりするリスク」と秤にかけ、権利侵害の方がまだマシだ、とするのが反出生主義者の主張だと思います。

●「生まれてこない方がよかった」というのは結局個人の感想じゃないか。主義として成立していない。

デイヴィッド・ベネター氏の著書の邦題ですね。
反出生主義について論じる方々の中でも、この意見は多くみられます。

私は、「そのタイトルは反出生主義の核心ではない」と考えた方が良いかなと思っています。
どちらかというと「(今生きている人はともかく)これから誰も誕生させない方が良い」という主張を中心に考えるのが良さそうです。

ではなぜ「生まれてこない方がよかった」というタイトルが 反出生主義の有名な著書のタイトルに付けられているのか?
ここは推測によるところが大きいですが、純粋に「フックとして強い」ためではないかなと思います。
またこのタイトルの意図するところは、ベネターの主張する「幸福と苦痛の非対称性」から演繹的に考えていくと、人は「生まれてこない方がよかった」と言えてしまう、ということだと思います。
(あくまでも根幹となる主張は非対称性であり、そこから導かれた「生まれてこない方が良かった」は “例示” に近いものだと思われます。)

●一律に「人に生きる価値はない」と決め付けるのは暴論じゃないか。

反出生主義は、今生きる人の生存価値を尊重するケースが多いです。
一方、存在しない人の価値を認めることはそもそも不可能です(存在しないので)

この主張を端的に表すために「人生に生きる価値はあるが、生まれてくる必要はない」といった言い回しがあります。

さらに言うなら「人を産む行為の方が、人の価値を決定付けている」ともとれる気がします。

●人類滅亡を目指すなんて、横暴な考え方だ。

反出生主義は 必ずしも人類滅亡を目的とするものではありません。
人類滅亡は、あくまでも主義に基づく行為が招く 一つの結果に過ぎません。
(反出生主義者の一部には 現存する人類の安楽死を望む方もいるかもしれませんが…決して反出生主義の必要条件ではなく、派閥によって生まれる考え方です)

こう書き出すと わかりやすいでしょうか。
■目 的:生きる人を尊重しつつ 苦しむ人間の発生を抑える
■目 標:出生率0
■手 段:誰も新しく人を産まないようにする
■副作用:現存する人類の寿命による”滅亡”
滅亡を目的とはしておらず、ただ結果として滅亡することを容認しているだけなのです。

また、別の捉え方をしてみましょうか。
仮に 今いる人類全てが不老不死となった環境を想定した上で、人類滅亡を目的とする ”滅亡主義者” と行動を比較してみます。
■滅亡主義 :なんとか不老不死の人類全てを滅ぼす方法を考える
■反出生主義:新しく命が生まれなければよいため、人類滅亡は企図しない
滅亡は結果に過ぎない、という意味がお分かりいただけたでしょうか。

●人類が滅び、科学の発展や人類史が途絶えてもいいのか。

もちろんこれまで築き上げられた歴史、科学などの産物は尊いものです。
でも、それらをこれからも続けていくべき、とする根拠は何でしょうか。
いくら貴重なものでも、苦しみを伴う人の活動の副産物である以上は、積極的に生み出すべきではないとも考えられます。
(尊ぶべきだが新たに生み出すべきでない人類史の産物の例として、原爆ドームなどはどうでしょう。)

●出生前の人にとっての良し悪しなどないのではないか。

私も そう考えるのが自然だと思います。
反出生主義者、反-反出生主義者ともに、未存在に仮の人格を与えて議論することがありますが、これは極力避けるべきと考えています。

あくまでも今生きている人間の価値観・道徳を根拠に、以下のように考えるのが自然かなと思います。

1、帰納的に、出生後の人生にはほぼ確実に苦痛が伴うと考えられる
2、人生の途中離脱行為は、道徳上好ましくないとされている
3、1と2より、苦痛や離脱不可能である以上 本来は説明責任を伴うが、それを果たすことは(対象が未存在のため)不可能である
4、選択的に子どもを作らないことは罪ではない
5、3、4より、ある人格を生み出すことは罪を伴うが 生み出さないことは罪ではないため、子どもを作らない方が より良い。

なお、自分が書いていてなんですが 3は筋が通っていない気がしています。未存在への説明責任というのが、結局仮の人格設定から脱し切れてないというか。

●生きづらさを抱える人だけがこういう思想に行き着くのでは?

実際のところ、反出生主義者にはそうした人が多い印象はあります。
が、当Q&A内で気にしているのは 反出生主義の妥当性 なので、主義者の精神面などについては気にしないことにしています。

前提として、ある主義を主張する者の精神がどうであれ その内容の妥当性などには 影響しないと考えています。
仮に いつも死にたがっている人が「1+1=2である」と言った場合、その計算が疑わしくなるでしょうか?
まあ 何の脈絡もなくそんなことを言い出すのはオカシイかもしれませんが、少なくとも 1+1=2 という計算結果自体の正否は変わりませんよね。

つまり言いたいのは「こんな人が言ってるから間違っているor正しい」という考え方はしない方がよい、ということです。
反出生主義やその他あらゆる主張含め、これは当てはまります。

●苦痛と快楽の非対称性がピンと来ない。

※詳しくは「ベネター 非対称性」等のキーワードで検索してみてください

私個人の感覚から推測するに、存在と “未存在” という、比較しえないものを比較している点が腑に落ちない、といった感じでしょうか。

一旦 生まれなかった場合の誰かを想定するのをやめて、“今生きている人にとっての道徳” から考えてみるのはどうでしょうか。

「人が誰かに 苦痛 を 与える ことは悪い」
「人が誰かに 苦痛 を 与えない よう心がけることは良い」
「人が誰かに 幸福 を 与える ことは良い」
「人が誰かに 幸福 を 与えない ことは悪くはない(幸福を奪うのは悪い)」

このように考えれば、未存在児や魂などの存在を仮定することなく 非対称性について論じられるのではないでしょうか。

(ベネターの主張からはズレているかも知れませんが、私自身「未存在児にとって…」というのはピンときていません)

●相手がどんなことを苦痛を感じるかは分からないから、生むことの善し悪しは判断できないはずだ。

人は基本的に、苦痛を感じる感覚器官を備えて生まれてきます。
このことから、苦痛と生は不可分なものだと言えます。

また、仮に「相手が苦痛を感じるかどうかは分からない」ことを根拠に「その相手へのいかなる行為も容認される」のであれば
他者にいかなる暴力を奮っても良い、ということに なってしまいませんか?

●お腹の中にいる赤ちゃんも産むなというのか。

中絶については 反出生主義者の中でも意見の割れるところみたいです。
ただ、少なくとも「そもそも妊娠に至る行為をしないこと」を、反出生主義では推奨しています。

なお 反出生主義は中絶を推奨している との勘違いからか、反出生主義は女性に責任を押し付けている などと捉えられることもあるようですが、
性別問わず欲求を抑えて(または出生に繋がらない方法で発散して)いくことで解決すべき問題だと考えられています。

●誰だって生きるのは苦しい。でも、それを乗り越えて幸せを獲得することが人生の醍醐味だ。

わかります。しかし、それは他者に強制することではないと思います。

●幸福か不幸か なんて捉えようの問題だ。この世界は幸福だと思えば幸福なのだ。

その通りだと思います。しかしそれは、同時に「捉え方次第では この世界は地獄にもなりうる」ことを意味します。
天国にも地獄にも転びうるようなギャンブル性の高い世界に、初めから人を連れてくるべきではない、と 考えるのが反出生主義だと思います。

あるいは「捉え方は自分で決められるから、この世界は幸福だと考えていい」といった考えでしょうか。

その考え方は、すでに生まれてしまった人に対し 人生をなるべく幸福に生きるためのアドバイスとして提示する分には良いマインドセットだと思います。
しかし「捉え方次第では幸福とも言えるし不幸とも言える所にわざわざ連れてくる」のは、また別のお話だと思います。

●人生が幸福か、苦痛かは本人が選ぶことだ。選択肢やチャンスすら与えない、という方が勝手ではないか。

今生きる人々の感覚的に、生まれた後にあらゆる選択や あらゆる挑戦の機会が拓けるため、「産むこと=チャンスを与えること」と考えるのはよくわかります。
しかし その反対、”産まない” ということは、誰かからチャンスを奪うような悪いことになるのでしょうか。

ひとつ、例を挙げて考えてみましょう。
仮にあなたが子どもを産むことを考えていて、しかし経済的理由などから断念したとします。
そう 断念した瞬間、あなたは誰かの何かを奪ったことになるでしょうか?

ここで認めるべきは、子どもを つくらないことは、決して悪ではないということ。
さらにもう一ついえば、人の誕生は 生まれる側の合意なく、産む者の行いによってのみ起こると言うこと。つまり”出生はいかなる場合も勝手に行われる”ということです。

勝手に産んだ上で「人生が幸福か苦痛かは、本人が選べば良い」と言い切れるでしょうか。

●生まれていない人間の合意なんてとりようがない。

そうですね。だとして 倫理的に「合意を取れないなら何をしても許される」でしょうか?

●「産んでくれなんて頼んでない」と同じ性質の、子どもくさい主張に過ぎない。

似たような構造の主張ではあると思います。
しかし、それは 反出生主義の妥当性を評価する根拠になり得るでしょうか?

人格否定ではない方法で問いを立てるのが よりよいかと思います。

●苦しみを無くすため、というのはアニメ等のラスボスが言いがちなセリフだ。

確かにそうかもしれません。
しかし物語上で悪”役”の主張として描かれることで、その主張自体の正当性や妥当性は崩れるのでしょうか?

また、これまで反出生主義に類する主張がなされた作品内では、いかなる反論がなされたでしょうか。
私の観測範囲内に限れば、主張した者を力で捻じ伏せて諦めさせる、個人的な価値観の差異として処理する、苦しみをなるべく減らすか苦しみが続くことを受け入れる、などのパターンで終わることが多いように思います。
それらの方法では、結局「出生が他人に苦痛を強いる」ことについての道徳的な問題提起に対し、明確に回答できていない気がします。

●判断基準を持たない者に対しては、その保護者が代理で決定権を持ってよい(持つべき)なのではないか。

子どもが一時的な危険に晒される場合と、数十年に及ぶ一生丸ごとの発生とを同列に扱うべきではないと思います。
仮に、その子どもの一生涯について完全に責任を負うことができるなら 別かもしれませんが。

●生まれて来る前に苦痛が無い、とするのは決めつけではないか。実は出生前の世界があるかもしれない。

ではその可能性について考えるために、あえて “生まれてくる前に苦痛に苛まれる魂が存在する”と仮定しましょう。
また、仮に その総数は10兆程度としましょう。

今の世界人口よりおおい100億のさらに1000倍なので、この地球が1000個あってもキャパシティ的に厳しいくらいの総量です。

あなたは、その10兆の中からたった1つ か 2~3つを選び取って、この世界に連れてくる使命を背負っているでしょうか?
またその時、あなたが見捨てざるを得ない魂はどれほど存在するでしょうか。

ここで言いたいのは「”生まれる前の状態” は人類には観測しようがなく、各主義者に都合の良いよう好き勝手に 仮定できてしまうため、初めから考えない方がよい 」ということです。

●他の生物は考慮しなくて良いのか?反出生主義はどこまで適用されるのか?

反出生主義について論じる中でも、実際かなり難しいところですね。
私にも、今のところ結論は出せていません。

仮に生物学上「ヒト」に分類される生物に限定する場合、なぜそのように限定するか という根拠が求められると思うのですが、
・苦痛の有無を基準とする場合、ヒト以外に苦痛を感じるものが居ないのか否かが争点となります。
・コミュニケーション可能であること、反出生主義を理解させられることを条件とする場合「いずれも不可能であるヒト種」がレンジから外れてしまいます。
(言い方は悪いですが モノわかりの良くない人や、外界と隔絶した環境で生きる部族などがその例となるでしょうか)

こうなると、当初目的である「苦痛を感じる人の存在をなくする」ことが達成不可能となってしまいます。

…ただ、対象範囲が不明瞭であることを根拠に 反出生主義が正しいとも間違っているとも言い切ることはできないように思いますが。
とにかくSNSなどを通じて発信していくだけでも、主義者の行為としては的外れではないですし。

●[NEW]私は生まれてきて良かったと、心から言える。

それは 本当に良かったですね。
もし「生まれて来ない方がよかった」との主張を見て不快になられたのであれば、これは決してあなたの人生を否定するものではないと、言っておきます。
心から「生まれてきて良かった」と思えるあなたの人生は、誰にも否定され得ない 貴重なものであると思います。

しかし、以下のことは念頭に置いていただけると 嬉しいです。
・あなた個人がいかに「生まれてきて良かった」と感じられていても、他の誰かが 人生に対してそう感じられるとは限らないということ。
・また、これから生まれてくる誰かの幸福を保証し得るものでもないということ。
・あなたにとって いかに貴重な人生経験を与えてくれる世界でも、別の誰かにとってそうであるとは限らないということ。

●[NEW]そんなに人生が嫌なら、勝手に死ねばいい。

最近話題の「生まれてこない方がよかった」に対し、ネット上でよく投げかけられる言葉です。

このような場合、反出生主義について大きく誤解されている気がします。
反出生主義はあくまでも「これ以上人を産むな」と言っているのに過ぎないのです。
誰かが死ぬことを 前提にはしていません。

「産まないこと」と「死」が明確に異なるように
「生まれてこない方がいい」のと「死んだ方がいい」のは明確に異なります。

●出生は制限されない暴力なのではないか。

反出生主義を補強する善悪論や道徳を、その成り立ちから見直すことで、出生の是非対しても適用可能かどうかを見直す考え方ですね。

ここからは、私なりに考えた見解・仮説として
・暴力 がいかなる理由で制限されるか
・反対に いかなる暴力が制限されないか
について、個人とコミュニティの関係性から述べていきます。

まず、私は「そもそは人は 本質的に身勝手である」と考えています。
身勝手でいい、というよりは、そうとしかなり得ない、というニュアンスです。

いかなる利他的行動も、個人の価値観から他者にとっての利益を勝手に想像し、それが成功することで 自身の報酬系が刺激されるから 行なっているだけです。
つまり、利他的な行動をしたことによる報酬刺激を得るための利己的行動(=身勝手)に帰結します。

そして、身勝手にしか なり得ない以上、本来のあり方としては 人が人に苦しみを与えることも 問題ではないのではないか、と考えます。

ただし、自分が為し得ることは当然他者も同様に為し得る、という条件があります。
「他者を殴っていい」という原則に基づいて生きているとすれば、同じ原則に基づいて生きる他者から「殴られるリスク」を認めることになります。

つまり、各々が身勝手に生きようとした結果、なるべく暴力を振るわないなどの協定を結び 快適に生きようとしているだけのことなんじゃないか と思います。
(それをある程度明文化し強制力を持たせたものが法律などで、もっと快適に生きるための人間関係ライフハックが道徳、それを幼い頃から染み込ませるために教育がある、といったところかと)

・・・

ここで出生について立ち戻り、人を「生む」という行為を犯した場合を考えてみましょう。人を生んでも良いとした時、自分がもう一度出生させられる、なんてことは起こり得ルでしょうか。

仮に “生むこと” が非常に暴力的な行いであるとしても、この世に生きる人がその被害を被らない以上、それを制限する協定は生じえないですよね。

・・・

以上の通り、今のところ私は、人が人を生むことについては否定し得ないと 考えています。
これについてより検討するために その立場を執る人に対する想定問答も書いたので、是非ご参照ください。

とはいえ、そのような暴力的行為が法にも道徳にも問われないとしても、出生させられた当人からすれば理不尽な暴行を受けたことに他なりません。
それを意識させないよう、うまいこと育てるしか 回避策はありません。

これまで人を産んできた人、これから産もうと考えている人たちには、それを回避できる自信があるのでしょうか。単にそこまで考えないのでしょうか。

考えない人が居るのだとすれば…こうした思想が広まり 考えざるを得ない状況が生じることには、おそらく良い側面 も あるかなと思っています。
(悪い側面もあるはずですが、他者の人生観を変えるような主張の流布も 余程害悪的なものでなければ 身勝手に行ってよい行為の一つだと考えています)

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