ことばにしていくたいせつさ──でも、すべてはことばにならない
キュビズム演劇とは、
舞台美術に四角が描きこまれていて、演者が四角いシルエットの衣装を着て、ロボットダンスのような動きをする──それらはなんとなく、キューブを連想させるような気がする──そんな演劇ではなくて、キューブの本質を舞台上で表現したいと考えています。
キューブの本質
ブラックがマンドリンをキューブのなかに描いたのには、なんらかの理由があるはずです。ぼくはブラックの絵のなかでキューブと触れあったとき、それがどことなく詩と似ているような気がしました。
詩は、説明不足の表現です。小説やそのほかの文章と比べても圧倒的に説明がすくない。そのためにわかりにくさがあります。
けれど、説明不足が表現不足であるとは限りません。説明過多であるために表現不足に陥っている事例は現在のテレビドラマによく見受けられます。
『No. 1 Pure Pedigree』に収録している「Ⅴ」という詩に、
という、いち行を書きこみました。
詩はなにのために存在しているのか? 自分自身に問いかけたとき、ひとつの答えとして導き出されたのが、このいち行でした。
生産性を第一に据える社会では、言語化することが執拗に求められます。
ことばになれないものに価値がないとするなら、おそらく多くの芸術がその価値を喪失してしまうでしょう。
そもそも、「ことばそのもの」が事象を定義するのではなくて、「事象から生まれたことば」が事象を定義することを忘れてはいけません。
また、ことばは即座に生まれるわけではなくて、新しい事象が起きたとしても言語化されるまでいくらかの時間を要します。
そういう、まだことばになり得ないものを、ことばの代わりに表現しているのが、詩であったり絵画であったり、芸術であるということ。
ゆえに、検閲によって芸術を封じこめることは、事象の封じこめであるといえます。
事象を封じこめる国に、技術革新は起こり得るか。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。