「あたらしい」を再定義するために
僕は「ぺぺぺの会」に所属して演劇をつくっています。ぺぺぺの会のTwitterプロフィールには「令和時代のあたらしいアートを作ろうとするヒトビトのあつまり」と記されています。
今日は僕が考える「あたらしい」について書いていこうと思います。
まず伝えたいのは完全に新しいものなど存在しないということです。
僕は作家として文章を書きます。一般に文章は日常会話や本など、これまで触れてきた言葉の蓄積によって紡がれます。ですから、極端なことを言えば、日本語や英語など、既存の言語を使用している時点でその表現は新しくないということになります。
もし完全にあたらしいものを作りたいのだとしたら、まったく新しい言語で、まったく新しい媒体をもちいて表現しなければなりません(ですが、このような手法もすでに先人たちが試してしまっています)。
つまり、新しいものをつくるのはほとんど無理です。現代はモノやサービスで溢れかえり、ないものはありません。さらにはインターネットの普及によりあらゆる情報がオープンソース化されています。
そんな時代だからこそ「自分たちのつくっているものは世界に一つしかない」などと豪語された日には一抹の疑わしさだけをひたすらに感じてしまうのです。
それでも作家は文字を紡ぎ、画家は絵を描き、俳優は演じます。紡がれた文章が、描かれた対象が、演じられるものが完全に新しいものでないことを知りながらも、人類は表現することをやめません。
取り入れた情報は、各人がひとつずつ持つ「脳」によって処理されます。そっくり同じ顔を持つ人を見つけるのが難しいように、そっくり同じ脳を持つ人はほとんどいません。情報は各自の脳によって、オリジナルなものへと進化します。
だから僕はあたらしさをスロットマシーンのように捉えています。衣服のブームが時代の移り変わりのなかで繰り返されるように。僕たちは流転する世界の住人。
現在「あたらしい!」と賞賛されるものは「完全に新しい」わけではなく、スロットマシーンで「7・7・7」が出た瞬間に似ていると、僕は思います。
どういうことだろう? ぺぺぺの会で例えるなら、「令和という時代に・20代前半の若者が・硬質な文体で書かれた詩を上演台本にして・演劇という分野で・芸術活動をする」みたいな。
実際はこれよりも多くの要素がより複雑に相関し、表現者は自分なりの、もしくは自分と社会のための「7・7・7」を出すために今日もスロットをまわすのです。
また、ぺぺぺの会の「あたらしい」はひらがなで表記されていますが、これには意図があって、古語の「あたらし(惜し)」の意味も含んでいるのだと考えます。
僕たちは移りゆく時代のなかで埋もそうになる、さまざまな表現やそこに生きていた人々を惜しみ、敬愛することを忘れません。
ぺぺぺの会では演劇作品づくりのための稽古とは別に、定期的な勉強会を開催し古今東西の作品、理論、社会問題等を考察しつづけています。
さいごに。ここまで読んでくださった怜悧な読者の皆さまはこの文章の内容を正しく把握してくださっていると思いますが、インターネットはやはり恐ろしいので念のため註を加えさせてください。
文中で「模倣」という言葉を使用しましたが、僕は盗作を支持しているわけでは決してありません。この文章の冒頭で語られていることは、ひまわりの花を描いたところでひまわりの花を剽窃したことにはならないということです。一方でゴッホの「ひまわり」をそっくり描き、それを自らの表現であるかのように振る舞うのは許されない行為です。
大切なのは、脳が適切に使用され独自の情報処理が行われたかどうかです。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。