いじめ後のリハビリについて、後編

ぽぽみうむです。
連日、過去のいじめとの対峙についての投稿をしています。まずはあらすじ。

中学は他人任せな性格や、空気の読めない性質が災いして、いじめられっ子でした。
そんな自分を変えるべく、高校、大学3回生までで、「いじられる」術を習得し、だいぶ人と関われるようにはなりました。しかし、仲良しグループに所属するというような、人と親密になることができませんでした。

今回は、一番の分岐点となった、「研究室」での気付きやらを共有します。

同時期に研究室に配属されたのは、11人。「関わったことはあるけど一緒に行動するほどには仲良くない」って子が大半でした。一人ひとりが、それぞれの仲良しグループなるものに所属していたので、私からしたら、絶妙な距離感のある人たちでした。

私は、絶妙な距離感のある人を前にして、陽気モードに入りました。どうせ、一年で解散だし、自分の過去の話とかボッチな事とかをほじくりかえされたくがないがために、陽気の鎧を被りました。

実際、自分からボケにいって、周りの人が楽しんでくれて、和やかになるのは本当に嬉しいと思いました。先輩達にすぐに顔と名前を覚えてもらえて、
「私はもう嫌われ者ではないのかもしれない」
と思った一方、やはり、
「いや、これは偽りの自分だし…。」
「どうせ陰ではうざがられてるし…。」
「結局私は嫌われ者だし…」
とマイナスなことを考えていました。

ですが、研究室の日々の中で、少しずつ、「自分は周りに受け入れてもらう権利がある」と、自分の事も容認できる出来事もありました。

例えば、先輩方や、同期に構ってもらっている私を見て、「みんなに慕われていて羨ましい」
と言ってもらえたこと。その瞬間、私は、「偽りの自分だったのかも知れないけど、私はやっと普通の人間になれたんだ」と思いました。

また、研究室のことがうまくいかず、泣いてた時に、みんなが「栄光の架け橋」を歌ってくれたこと。誰も手を差し伸べてくれなかった時代とは一変して、どんなに情けない姿も認めてくれて、励ましてくれる存在ができたことに涙しました。

研究室の人達は、絶妙な距離感だからこそ、「この人達になら、どう思われてもいいや、多少引かれても来年から会わなければいいや」と逆に気楽に思い、次第に「どうにでもなれ」の精神で、闇の部分であったり、人間の性格についてとか、学校教育についてのお話もするようになりました。
すると、みんなそれぞれ真剣に答えてくれえ、考えを深めることができました。こんな感じで、意見を交わすのが本当に楽しいと思いました。

それまでの私は、陽気であり続ける呪いにかけられていましたが、真面目な話もできる人に出会えて、とても嬉しくなりました。これが一般的な仲良しグループのあり方なのかは分かりません。でも、私はこの人たちと出会えて良かったと思います。

仲良しグループって、「自分達の繋がりが一番」の確約をするためのものだと睨んでいます。なので、私はその確約がありません。なので、そりゃあ、孤独にもなります。
でも、「向こうはどう思っていようが私は大切」と思える存在でも別にいいか、と思えるようになりました。結局、親子であっても人権は個人に帰属するわけで、いい意味でも悪い意味でも孤独なんです、そう割り切りました。

真面目な部分も出すようになった結果、本来は絶対に交わることのなかった人とも関われるようになりました。
例の意識高いセミナーに行く事もそうですし、しょっちゅう語り合っている人たちもそうです。思い切って自分を出すようにした結果、無理やり陽気にいなくても自分が認められていると思えることが増えました。

真面目な話をして、「価値観が似ている」とか、「めっちゃそれ分かる!」とか言ってもらえる度に、次第に自分のことを許せるようになってきました。

また、研究室では、人間関係のリハビリだけではなく、自分の良くない部分の更生やネガティブな価値観のリハビリもできました。

わたしは研究室で一回、絶望的な状況に追い込まれました。なんなら卒業の危機です。涙が止まらない、冷や汗が止まらない、寝られない、て感じです。
そんな状況を打開できるのは、自分しかいないと気づき、他人任せに生きていたことに気づきました。

さらに、私は、前向きな同期と関わることで、「思ったよりわたしはネガティブなのかも」
「ネガティブな事言っても現状変わらないな」と悟りを開けるようになりました。

そんな訳で、研究室がきっかけで人に自分のことを許せるようになったのです。
それが、noteの投稿にも繋がってくるのですが、自分の価値観を共有する上で、とうしても、この過去の話を自分の中で受け入れるしかないと思うようになりました。

この過去を受け入れるために何をするか?という事で、私はこのnoteに私のルーツを書くことにしたのです。自分の中でしっかり反省し、行動に反映させ、「これは自分にとって必要な事だった」と思えるようにする。この考えの歴史を残す事で私は前に進めると思いました。

つまり、私にとって、いじめ後のリハビリとは、脳が動く限り、ずっと続きます。
そのことを踏まえて、次回、世の中のいじめっ子に対して思うことを書いていきたいと思います。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?