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戦争と子どもと『神さまの貨物』のこと

ロシア軍によるウクライナ侵攻のニュースがテレビ画面に流れたとき、中学生の次男が「これ、なに?」と驚いた顔で聞いてきた。「これ、今じゃないよね? むかしの映像だよね?」。わたしが「今だよ」と答えると、「なんで?」と怒ったように言った。画面には爆撃を受けた集合住宅から運び出される血だらけの人の姿が映っていた。息子はうなだれたようにあごをテーブルにのせ、目を閉じると「もう、いやだ」と長いため息をついた。

彼が小学校を卒業したのは、新型コロナウイルスが流行りはじめた春だった。クラスメートと仲良くなる間もないうちに緊急事態宣言が出て、自宅学習がしばらく続いた。対面での授業が始まっても、楽しみにしていた行事は中止になり、放課後も自由に友だちと行き来することが難しくなっていた。その間、大人たちは新型コロナへの対応をめぐって感情的な対立を続けていた。子どもはコロナ以上に人間におびえているように見えた。中学3年生になるこの春、こんどは戦争が始まった。

息子がちょうどいま学んでいる歴史の教科書には、「過ちは繰返しませぬから」というあの言葉が載っているはずだ。「帝国主義」「日清戦争」「日露戦争」「第二次世界大戦」といった太字の言葉がリアルに迫ってきたのか、「これもウクライナと同じことなの?」と、何度も聞いてくる。「人間って、むかしはこんなことをしていたんだね」と言えればどんなによかったか。

わたしが子どものころ、日本は高度経済成長を経て、バブル期にむかいつつあった。学校で教えられる歴史は、過ちを繰り返しながらも、よりよい世界をめざして変わっていく人類の歩みにみえた。学生のころ、ベルリンの壁が崩壊し、東西の冷戦が終わった。アパルトヘイトも撤廃された。同時代のなかに身をなげうって「よりよい時代」をつくろうと働いた大人たちがいたことを知った。それは希望だった。自分もそういう大人になりたいと思った。

だが、そういう大人からはほど遠い自分がいる。いま、ため息をつく子どもに自信をもって伝えられる希望を、わたしは持っているだろうか。励ましたいのに、言葉が出てこない。いままで自分は何をしてきたのだろう。振り返ったとき、わたしには自分で勝ちとった「希望」は何もないことに気づく。誰かが切りひらいてくれた道のうえで、誰かがつくってくれた環境で、それなりの仕事をしているような気になっていただけだ。口先の言葉は、彼には伝わらないだろう。わたしの怠慢やごまかしを見抜くだろう。だから、問われているのは、たぶん、わたし自身だ。ため息をつかれたのは、他でもなくもっとも身近な大人、わたし自身なのだと思った。

わたしは変われるだろうか。いい年をして、変われるだろうか。本当は心の底で思っているあの愛しさを、自分の人生にあらわし、自分の言葉で伝えられるようになるだろうか。不信を払いのけ、美しいものを、温かい人間の心を、世界は生きるに値するのだということを、まっすぐに伝えられるようになるだろうか。寝苦しい夜、悶々と寝返りを打ちながら、わたしは一人の赤ちゃんとその子を守った大人たちの物語を思い出していた。

それは戦争の嵐が吹き荒れる時代だった。雪の日、貧しい木こりの妻が、貨物列車から投げ落とされた赤ん坊と出会う。彼女はその子を育てる決心をする。子どもを家に連れて帰ると、貧しい木こりの夫は激怒する。育てる余裕などあるはずはなく、しかも、その赤ん坊は自分たちが「神殺し」と憎む者たちの子だったからだ。だが、新米の母の決意は揺るがなかった。彼女は文字も読めなかったが、子どもをまもるために知恵を働かせた。武器ひとつなかったが、いきりたつ男たちに素朴な言葉で立ち向かった。ある日、怒った木こりの夫が赤ちゃんに手をあげようとしたとき、妻はその手をにぎって赤ちゃんの胸に置いた。男の手にやわらかな肌がふれた。胸の上がり下がり、心臓の鼓動が伝わってくる。男は混乱する。「愛しい」という、生まれてはじめての感情が怖かったのだ。日を重ねるうちに、今までに味わったことのない深いやすらぎとよろこびを認めるようになる。男はついに、自分の身を危険にさらしても、子どもをまもるほうが幸せだと確信する。彼はある日、仕事仲間が「人でなし」のことを話し、口汚く罵る前で沈黙する。彼はその「人でなし」の子どもを愛していたのだ。かつてはいっしょに悪口を言った「人でなし」。だが、心の奥に張り巡らされた罵りの言葉は、すでに彼の心から消えていた。腕に抱いたあの赤ん坊が、悪魔であるはずがない。殺されてよいはずがない。断じて、ノーだ。それは理屈ではなかった。男は仲間たちにむかって、「人でなしにも、心がある」と叫んだ。そう言って仲間のもとを去ったあと、不意に恐ろしくなる。ゆがんだ悪意の水面に石を投げてしまったからだ。

「男は歩いた。歩きながら、自分の心臓が鳴っているのを感じた。そしていつの間にか、歌をうたっていた。うたったことのない歌を――そもそも歌をうたうなどということは、これまで一度もなかったのに――歩きながらうたっていた。」

これは『神様さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子 訳)という本のなかの一節だ。「人でなしにも、心がある」と叫んだとき、男は自分の心を覆っていた偏見と憎悪のベールを払いのけ、はじめて自分の心に触れたのだ。そのとき、彼は自由になった。愛しいと感じたものを素直に愛した。それ以上に大切なものは何もなかった。その代償がなんであるか――もう彼は気に留めなかった。

わたしはこの物語を読み終えたとき、最後の一文に込められた著者の心を知って、深く頭を垂れたくなった。

「そう、ただ一つ存在に値するもの――実際の人生でも物語のなかでも、ほんとうにあってほしいもの、それは愛だ。愛、子どもたちにそそがれる愛。自分の子にも、他人の子にも。たとえどんなことがあっても、どんなことがなくても、その愛があればこそ、人間は、生きてゆける」

子どもたちは心臓の音を思い出させてくれる。憎しみでも敵意でもなく、その場かぎりの感情でもなく、人間には「もっとほんとうのこと」があると伝えてくれる。自分の子も、他人の子も、どんな国の子どもも――。子どもの笑顔、それこそが希望だ。わたしたちにはまだ、「うたったことのない歌」がある。

野村浩介


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