おつまみnote

【お手本作品】ミックスナッツ/安東みきえ【#夜更けのおつまみ】


 私の母は全くの下戸だった。父はかなりの酒好きで、夜はほぼ毎日酔っぱらっていたように思う。私は平等にふたりの遺伝子を引き継ぎ、弱いくせに酒が大好きという面倒な人間に仕上がった。
 粕漬でさえも赤くなった母と同じに、私も吞むと顔に出る。ほんのり桜色という程度では済まずにトマトのように真っ赤になる。最近では加齢による皺やくすみが加わったせいか干し柿にも似てきた。酒席で手洗いに立ち、店の鏡をのぞくたびにぞっとして酔いも醒める心地になるが、なに心地だけのことで実際に醒めたりはしない。でなければもったいなくて吞めないではないか。
 会社勤めをしていた頃は、よく焼き鳥屋に立ち寄った。ヤカンからコップについでくれる酒は熱燗で、こぼれそうになるのを「おっとっと」と口元が迎えに行く格好で吞んだ。そこでのつまみは焼き鳥のみ。串に刺した鳥ではなく、足一本を丸々炭火で焼いたもの。そんな店の客は男ばかりかというとそんなことはない。仕事帰りの女たちが口数少なくコップ酒を傾け、山賊みたいにワシワシと鳥の足に食らいつき、安い吞み代を置いて立ち去るのは見慣れた光景だった。
 その焼き鳥も美味だったが、絶品のつまみというとセイコガニははずせない。
 普通、カニは酒のつまみには向かない。足肉はほじり出すのに忙しくて吞んでいられなくなるし、手に匂いがついて酒の味が変わってしまうからだ。しかしカニミソとなれば話は別。ミソなら手を汚さないし酒との相性も良い。そしてセイコガニはミソに加えて卵も食べられるのである。背に子を持つ「背子ガニ」というのが名前の由来で、越前ガニのメスをそう呼ぶらしい。この卵とミソが舌の上で溶け合うと最高に美味しいのだ。
 それにしても、孕んだわが子もろとも食べられてしまうのはさぞ無念だろう。せめて産卵してからならば親としてあきらめもついたろうに。「セイコや哀れ」と悼みつつ、バキバキと胴を割って皿に盛る。卵とミソと酒とを交互に口に運び、最後は殻に日本酒をそそいで残さず啜るのである。
 そのセイコガニ、漁の時期が限られているうえに、その小ささと味の良さから外に出さずに地元で消費してしまうのだとか。私は宅配の冷凍ものしか食べたことがないので、いつか解禁時期の福井に出向いて茹でたてのセイコガニを食べると心に決めている。わが身のあさましさ、命を奪わなければ生きられぬ人間の業の深さを思い知る為にも……考えるだけで背筋がのび、そして唾が出る。
 さてセイコガニと日本酒などというのは晩餐で、いわばハレの時。普段の夜更けの酒に選ぶのはウイスキーだ。
 家人が寝室に引き上げた頃に瓶とグラスを抱えていそいそとテーブルに向かう。夕食のあとだからもう台所には立ちたくない。必然つまみは乾き物となる。でん六の「小袋ミックスナッツ」これが定番。クルミやらアーモンドやら、木の実が三角の小さな袋に入っているものだ。それをナッツボウルにカラコロとあけて、ウイスキーをストレートでグラスにそそぐ。
 ウイスキーの銘柄も「白州」と決めている。白州の地が好きで、思いあまってそこに土地を買ってしまったくらいだから贔屓もおおいにある。が、それを差し引いても、森の香りと謳う爽やかさに惹かれるのだ。高いものでなくても充分にうまい。ひとりだからトマトになろうが干し柿になろうが気にしないで、ウイスキーとミックスナッツを楽しむ。
 黙ってちびちびやりながらあれこれ考える。子ども向けの本の構想を練ることもある。鳥や獣などを想像することも多い。クルミをつまんでいるうちに、リスなどが横合いにちょこんと座っているような気分になってくる。
 さらに酔ううちになつかしい思い出も浮かんでくる。町が森のようにしんとする夜中、亡くなった友人たちが傍らに来てくれる気がするのはそんな頃だ。
 気づけばボウルも空。空にするほど食べた覚えもないから、これは幻の人たちがナッツに手を出しているのに違いないと想う。「もう、しょうがないなあ」とぼやきながら、またカラコロとミックスナッツのおかわりを彼らのためにつぎ足してやる。
 琥珀色のウイスキーをひとなめし、大好きだった友人たちとのやさしい思い出に浸る。そうして夜も酒もますます深く、味わい深くなっていくのである。

*安東みきえ(あんどう・みきえ)*1953年、山梨県生まれ。「ふゆのひだまり」で第11回小さな童話大賞大賞を、『天のシーソー』で第11回椋鳩十児童文学賞を受賞。著書に、『ゆめみの駅 遺失物係』『頭のうちどころが悪かった熊の話』などがある。
このnoteは、キリンビール×ポプラ社 の「 #夜更けのおつまみ 」コンテストの参考作品として3月刊行のポプラ文庫『夜更けのおつまみ』から事前公開したものです。

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