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神は細部に宿る

昨日、WCPE で Sir Neville Marriner の指揮で、Academy of St Martin in the Fields が演奏する R Strauss が書いた Metamorphosen を聴いた。流して聴いていたら流れてきた。

その繊細な声に思わず聴き入った。

楽器というのは、だいたい、出る音は決まっている。管楽器の場合は、特定のキーを押せば、限定されたいくつかの音が出る。オクターブ高さの違う音は、息の吹き込み加減で制御する。リコーダーだと、穴を指で半分だの少し多めにだの塞ぐことで若干の音程の調整は可能だが、現代の木管楽器ではそういうわけにはゆかない。ただ、キーの押し方で、タンポに少し隙間を作るとかは可能かもしれないが。

そうはいうものの、管楽器では、さまざまな音を作り出すことができる。トリル、息の吹き加減、タンギング、楽器の角度、そういったもので、音に色々な表情を作り出すことができる。

弦楽器は、音に表情をつける自由は、管楽器よりも、一般には大きいとされる。音の高さは奏者が無段階に選び、調整することができるし、同じ音を出すのに異なる弦を使うこともできる。弓の使い方も無限にある。奏法だって無限。音域も広い。

Metamorphosen は、そんな弦楽器が23台登場する。奏者は23人。この曲では、その23人は、アンサンブルを組んではいるが、全員、ソリストだ。つまり、23人の奏者が、23台の弦楽器を、それぞれがソロで演奏する。

ソリストは、一般的に、歌が上手い。歌と言っても、楽器が奏でる歌だ。Metamorphosen は、23人の独奏者が、それぞれの歌を歌う曲だ。

さて、WCPE から流れてきた Sir Neville Marriner 指揮、Academy of St Martin in the Fields 演奏の Metamorphosen はどうだったか。

ぞくっ、とするような悲しい音。

視界の中に広がる焦土。瓦礫の山。人は誰もいない。色は灰色と黒。風の匂いは焦げ臭い。砂埃が舞う。

人々の幸せが破壊されたミュンヒェン。

美しいけれど、悲しい音。和音を構成する音は、ほんの少し音程を違えているようだ。messa voce で鳴る美しい音に、悲しみが映っている。

ほんのわずかな違いが、深い魂のメッセージとなって伝わる。それを実現するテクニックはすばらしいが、それだけではない。

奏者は、その悲しみを知っているのだ。知っているだけではなく、魂に刻まれている。あるいは、魂が傷ついている。だからこそ、この音が出せて、この演奏ができる。

この感覚は、日本でも、古楽にはあったのではないかと思う。

現代の日本はどうか。

技術を磨くことには余念がない。誰よりも正確に演奏できることを目指す。コンクールで賞を取ることを目指す。

それだけだ。

魂に刻まれた数々の経験を音に昇華できる奏者はどれくらいいることだろう。おそらくゼロと言っていいのではないかと思う。

コンクールで賞を取る、大きなお金を稼ぐ、マスコミが取り上げる。そんなことばかりに執心している。

クラシックのコンサートでは、著名な音楽家が登場する舞台は注目され、お金も入るが、そうでない音楽には、一瞥もくれない。

クラシック以外の音楽でもそうだ。人々の耳目を集め、ほんの数ヶ月で飽きられる音楽が、席巻している。

コンサート会場で、客は総立ちとなり、サイリウムを振って、陶酔している、そんな姿が対照的に思い浮かぶ。

神は細部に宿る。奏者の魂の傷が美しい音となって楽器からほとばしる。それは、漫然と聴いていたのでは聴き逃してしまうような、微かなものだ。演奏から放たれるその至高の音で、奏者と聴者が共感する。

これは音楽に限ったことではない。映像、演劇、文学、そのほか、ありとあらゆることに敷衍される。

いつになることだろう。

僕は、人と、特に、芸術家とかクリエイターと称する者たちと触れ合う度に、絶望する。

それでも、僕は、僕の仕事をするしかない。誰かのために。

誰かが細部に宿る神に気づいてくれることを祈りながら。


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