人を助けるのは難しい
最近、人を助けるというのは難しいなぁと思っています。
たとえば、僕に100万円の現金があって、僕の目の前にお金がなくて困っている人がいたとします。
僕は可哀想だからと、その人に半分の50万円を渡そうとするとします。
その人が「ありがとう」と言って50万円を受け取ってくれればいいですが、そうもいかないのが現実です。
たとえば、申し訳ないからと辞退する人。
たとえば、侮辱されたと思う人。
たとえば、何か裏があるのではと思う人。
このように、たとえこちらが善意で誰かを助けようとしても、それが対等な立場でなければ断られるケースも多いのです。
(じゃあ私に頂戴wというボケはスルーします)
だからこそ、対等な立場として善意を受け取ってもらうために「食べて応援」なんていう言葉が生まれたのかもしれません。
●「食べて応援」は助けることになるのか
僕は「食べて応援」には責任が生じると思っています。
たとえば、お金がなくて困っているお店に「食べて応援」をしたとします。
ですが、それは応援のために食べたのであって、お店そのものに価値を感じたからではありません。
食べたあとにSNSに「美味しかった!」と投稿するのも同じ理由の可能性があります。
しかし、これでは、お店は本来の価値以上の対価を得ることになります。
お店は得た対価を元に今後の営業を考えます。たくさん売れれば「これでいいんだ!」と思ってしまうかもしれません。
そのため、「食べて応援」が終わったとき、お店の営業に狂いが生じるのです。
具体的に言うと、本当は人気のないお店なのに「食べて応援」のために一時的な繁盛店となることで、本来の価値を見誤り、結果的に店が潰れてしまったりです。
オープン当初は友達や知人が義理で来店してたのに(もちろん褒めちぎります)、そのうち来なくなってお店を畳むようなものです。
だから、「食べて応援」には責任が生じると思うのです。
まぁ、「そんな細かいこと気にするな!」と怒られそうですが…。
●人を助けやすい状態
それでは逆に、人を助けやすい状態というのは、どういったものなのでしょうか。
僕が助けやすいと感じるときは、明確に「助けてください」と意思表示されたときです。
たとえば、電車やバスで座っているとき、高齢者かどうか微妙な年齢の人がいたら席を譲るべきか迷いますが、「足が悪いので代わってもらえませんか?」と聞かれたら、僕は喜んで席を譲ります。
また、コンビニの募金箱や、クラウドファンディングなんかも、明確に助けてほしいと意思表示をしているので、気が向いたらという気楽な感情で協力しようかなと思います。
また、その内容が具体的であればあるほど、助けやすい状況になります。
救急隊員の話しでは、人混みで誰か倒れていて、周りの人にも助けを求めるときには、具体的に「救急車を呼ぶ人」「AEDを探す人」など役割を与えてあげることで反応しやすくなるそうです。
日本人は「人様に迷惑をかけてはいけない」と教わりますが、本当に助けてほしいときには声を上げることが大切なんだと思います。
●声をあげられない人にかける言葉
困ったときに助けを求められる人はいいですが、真面目で優しい人ほど人に助けを求めることを避けると思います。
ときには自分の命よりも、誰かに助けを求める申し訳なさのほうを大事に考える人もいます。
あぁ、なんて優しい人なんだろう…。
僕はそんな人たちのことをたまに考えて試行錯誤する中で、次の言葉をかけるようにしようと心がけるようにしました。
「何か手伝えることない?●●(具体的にできること)のことだったら、いつでも相談して」
人を助けやすく、人に助けを求めやすい社会が、いいなって思います。
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