アドバンスケアプラニングと人生会議 Aprilの考え

                            R1/11/30

             【編集履歴】
              R1/11/30 一部文章追加、細かい誤字訂正

 小藪さんのポスターで良くも悪くも盛り上がった「人生会議」。それについて、緩和ケア業界で働いている身として、あるいはここ数日何名かの方と話し合ったことなどをまとめておこうと思う。自分の勉強になるし。

【重要なところ】
時間がない人はこの辺見たらいいと思う。僕の「私見」ではなく、総論が手に入る。
https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10801000-Iseikyoku-Soumuka/0000173561.pdf
第1回 人生の最終段階における医療の普及・啓発の在り方に関する検討会 資料3 アドバンス・ケア・プラニング
https://note.com/tnishi1/n/n119f996910d3
↑西智弘氏の今回の件に関するnote。厚労省の「中の人」との対話記録もあり。後の私見の(2)に関して「のみ」細かい差異はあるけど僕はおおむね同意見である。

【僕の私見の要点】
1)日々の診療で僕は特に日本人は「死への意識は足りない」と思っている。
2)なので、日本人一般に死を意識させるポスターは必要悪ではないか、少なくともやってみる価値はあるのではないかと思っている。エビデンスないけど。
3)でも、2)の目的のポスターは決してアドバンスケアプラニングじゃない。今回の小藪さんのポスターはアドバンスケアプラニングを冠した「人生会議」を使わなければ、少なくとも僕は賛成してた可能性が高い
4)ポスターの小藪さんは僕は嫌いじゃない 茶化してるとも思わない。だからそこに問題があるとは僕は思っていない。

【本文】
 アドバンスケアプラニング(以下ACP)と厚労省が提唱する「人生会議」、そしてアドバンスディレクティブ(以下AD)、さらに今回良くも悪くも話題になった小藪さんのポスター。この4つは確かに「命を扱う」という点では共通点があるんだけど、僕はここには決して小さくない違いもあると思っている。そして、その違いは、少なくとも緩和ケアを仕事にしている僕からは見過ごすことができない。そこがこの文章で一番言いたいことだ(要点の3)。
 まず自己紹介を。僕は緩和ケア分野で仕事をしている。仕事の傾向としては「超個人主義」で、多くの場合「患者の意向」は評価の際に相当重視するが、適用がない(固形癌に対する化学療法をPS4の患者が希望したとか)などのときは例外となりうるとも思っている。知識や考察力に対しては、医療従事者、政治家>マスコミ>患者団体>一患者 の順で要求水準が高くなる。
 一つお願いがある。ここから先を読む前に自分自身でACP、人生会議について自分なりの定義を考えてほしい。それがこの先の僕の記載と異なっても構わない。こういうものだと思っている、ということを読者の皆様自身で意識したうえで以下の内容を読んでほしい。今回の「騒動」の原因の多くはまさに認識のギャップにこそあるものだと僕は考えているから。



 人生会議について、厚労省のサイトでは一番上にこう書いてある。僕は、これは人生会議の要点と判断する。

>「人生会議」とは、もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取組のことです。
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_02783.html

 さらに、下のほうを見ていくとこのように書いてある。

【愛称・ロゴマークについて】
 厚生労働省では、今まで「ACP:アドバンス・ケア・プランニング」として普及・啓発を進めてまいりましたが、より馴染みやすい言葉となるよう「人生会議」という愛称で呼ぶことに決定しました。
(同ページより)

 これを僕は「ACPの名前を変えましたよ。でも内容は変えていませんよ」と解釈した。より正確に言えば「解釈していた」、数日前までは。そこに小藪さんのポスターがやってきた。

「あれ? ひょっとしてACPと人生会議って違うもんじゃね?」

 かつての僕も違和感はあったようだ。2019/1/10に僕はこんなツイートをしている。
https://twitter.com/Poker_April/status/1083175715221041153

「人生会議」ってネーミングは別にいいんだけども
「いい看取り」「いい看取られ」に合わせて11/30を人生会議の日にするってのは、正直いい感情がない
看取り に焦点を絞りすぎてる気がして

 「看取りに焦点を絞りすぎている」 この話題はこのあと何回も出すと思う。

 ACPとはそもそもなにか
「専門家をめざす人のための緩和医療学」より抜粋する。

Sudoreら:
「(ACPは)年齢や病期を問わず、患者が自身の価値観、人生目標、今後の医療に対する希望を理解・共有することを支援するプロセスである。ACPの目標は、重篤な疾患や慢性の疾患を抱える患者が、自身の価値観、目標、希望に沿った医療を確かに受けられるよう支援することである。また、多くの患者にとって、このプロセスは、患者自身で意思決定ができなくなったときに備えて、医療の意思決定を行うほかに信頼できる人(々)を選び、準備しておくことが含まれる」J Pain Symptom Manage. 2017 May;53(5):821-832
Defining Advance Care Planning for Adults: A Consensus Definition From a Multidisciplinary Delphi Panel. PMID:28062339
Ritjenら:
「ACPは意思決定能力を有する人が、自身の価値観に基づき、重篤な疾患の経過の意味と結果を反映し、将来の治療とケアの目標と希望を明らかにし、家族や医療従事者とともに話し合うことである。ACPは、身体的、心理的、社会的、スピリチュアルな領域にわたる個人の懸念に対処することである。代理意思決定者を同定し、いかなる希望も記録し、定期的に見直すことが推奨され、ある時点で意思決定能力が失われた場合はこの希望が考慮され得る」Lancet Oncol. 2017 Sep;18(9):e543-e551
Definition and recommendations for advance care planning: an international consensus supported by the European Association for Palliative Care.PMID:28884703

 少なくともACPは、この二つの定義からも「看取り」だけを対象にはしていない。「今後の医療」「将来の治療とケアの目標」というキーワードがある。これらがいわゆる延命だけを目的にした治療のみをさすとは考えづらい。さらに「自身の価値観」「人生目標」「社会的(な領域)」「スピリチュアルな領域」と、直接医療に関係のないような分野についても語り合うこととなっている。このことも「話し合うことは医療だけでもなければ、ましてや看取りのことだけではないんだな」と考える根拠になると僕は考える。
 なので僕は、本人・家族が「死への心構えをする」「死の際に混乱がないようにする」ってのは、ACPにおいては一要素に過ぎないと思っている。言い換えると仮にACPが、重篤な疾患を持つ患者のみを対象にしたとしても(実際には健常人に対するACPは別にあるわけだけども)、そのACPは「最期の瞬間」だけを話し合うわけではない。緩和ケアが「重篤な疾患に罹患した瞬間から」適用になるように、ある疾患に罹患した瞬間から、病気とどのように生きていくか、どのような治療をしていくか、生活の拠点はどうか、あるいは人生の様々な選択に影響を及ぼされて、そのうえで生き方を変えていくのか変えないのかの話し合いと、ACPを僕は理解している。では、無疾患の時点でのACPはどうか。これは確かに「死への心構え」という要素は大きくなるかもしれない。なぜなら未来を仮定するのは確かに難しく、そんな中で「わかりやすい嫌なこと」はまだ想定しやすいから。ここが一つ目のキーポイントだと思う。

 「一部であってもその要素を含むなら、やっぱりあのポスターは問題がないのではないか?」僕はその意見に反論しようと思う。
というのもACPの前にはADという考え方があった。終末期において患者の事前指示を書面化し、「患者の意向を治療に反映させる」狙いがあった。アメリカでADに関して法制化が行われた。米国のすべての医療機関は、すべての患者の入院時にADの情報提供を行い、患者の希望があればADの書面の完成支援を行うことが義務付けられた。
 このアドバンスディレクティブに含まれることは、大きく二点:
1)将来、本人が意思決定能力を喪失したときの生命維持治療に限らず自らに行われる治療の事前指示
2)患者が自ら判断できなくなった時の代理意思決定者の決定
 ACPに比べてかなり「先のこと」に特化していることがわかると思う。「意思決定能力の喪失」が起こった後のことの指定の文書を作成することを狙いとする。
 では、アドバンスディレクティブの結果どうなったか:
法制化によっても書面の作成率は低かった(14%)
書面を作成しても66%の患者が医療従事者と治療についての希望の話し合いはなされていなかった。
 53%の医師が患者の心肺蘇生に関する希望を知らず、46%のDNARオーダーは死亡二日前に完成され38%の患者が死亡前10日間をICUで過ごし、病院死亡患者の半数は中等度~重度の痛みがあった。
JAMA. 1995 Nov 22-29;274(20):1591-8.
A controlled trial to improve care for seriously ill hospitalized patients. The study to understand prognoses and preferences for outcomes and risks of treatments (SUPPORT). The SUPPORT Principal Investigators.PMID: 7474243
 残念ながらADは成功しなかった。
 何が悪かったか:
 書類を仕上げる作業に目が向きすぎであった。そもそも将来起こりうる医学的なトラブルは多岐にわたっていて、その可能性のすべてを書類に書き起こすことはとても難易度が高い。代理意思決定者がその話し合いに参加していないこともしばしばで、幸運にして書類があったとしても、なぜその書類ができたのか、その経緯を代理意思決定者がわからないこともあった。
 患者の希望を尊重するためには、いろいろな人間との話し合いを繰り返し、互いに「価値観の理解」を行うことが重要である。一回の話し合いではなく、話し合いを積み重ねることで患者が意思表明を行っていく、プロセスを重視すべきだった。事前指示の書類を作成することは僕は必ずしも必要ではなかったのだな、と感じている。
 ACPはそこを改善している。将来のことすべてを予測して事前指示書類の作成はしなかったとしても、話し合いの記録は残り、そこには患者の価値観が埋め込まれている。また価値観が移り変わっていったとしたらその動機が何であるかもわかるだろう。結果、「きっとこの患者がいま仮に意思を表出できたとしたら、こういうことを言うのではないか。だってこんなことを彼/彼女は大切にしていたのだから」と、話し合いの助けになる。
 さらにADにはない利点がもう一つある。「話し合いの中で患者自身が自分の価値観に気づき、意思表出ができる間でもそれを共有することができる」ということである。ADの場合、極論患者一人で書類を完成させてもいいし、事実そういう人もいた(結果、代理意思決定者が経緯を知らず混乱する例もあった)。しかし、家族や医療従事者と話し合うことで、「ああ、自分はこういうことが大事だったのか」と気づくことを、僕は自身が参加したACPの中で何回も見てきた。陳腐な言い方をすれば、自分のことこそよくわからないということだ。あるいは、普段思っていたが言えないことも、「人生の終末期を想定した話し合い」では伝えることができるかもしれない。医療に何の関係のない、例えばどこどこに行ってみたいなどだ。
 こうして書くと、ACPは素晴らしくて誰もがやるべきと思われるかもしれない。事実、自分はACPの取り組みでよかったなあと思えるエピソードはいくつも言える。しかしここであえて冷や水をかけるとすれば、これらの「利点」は、多くは何らかの疾患を抱えた患者に対するACPにおいて認められたということだ。文献的にも、あるいは僕個人の経験も、終末期の患者のACPはどうやら患者に利益をもたらしそうである。一方で僕個人は健常者のACPに参加した経験はほとんどなく、また文献的にも健常者のACPがその人のQoLを改善させるという報告を僕は見つけることができなかった(西先生も同じように言っているので、多分正しそうだ。なお、ADの作成率が増加したという報告はある)。
 さらに言えば、ACPは、またADであっても、また人生会議でさえも全員に奨励することはない、ましてや強制や説得などしてまでするものではない。ADはアメリカでは情報提供こそ全員に行うが書類作成は任意だし、ACPはそれを行う心の準備ができている患者に行うべきというのはおおむね合意が得られている(Ritjenらの文献より)。人生会議ですら、リーフレットにこう書かれているのだ。

このような取組は、個人の主体的な行いによって考え、進めるものです。知りたくない、考えたくない方への十分な配慮が必要です。 https://www.mhlw.go.jp/content/10802000/000536088.pdf

 したがって上記のACPの利点は、エビデンスとしては「終末期の」「ACP参加を了解した」患者には言えそうだが、そうではない「健康な」あるいは「ACPを希望しない」患者には即座に適応できないと考えるのが妥当だろう。やってはいけない、ではなくてやるメリットの根拠が不十分、という意味で僕は言っている。

 僕は緩和ケア医であり、超個人主義である。自分自身の考えとしては、僕は自分が病気になったらそれがどんな状況か知りたいし、ACPもしたい。だが、それは僕自身の考えであって、目の前の患者は違うかもしれない。だから、目の前の患者がすべてを聞きたいといえばしっかり時間をとって話し合いをしたし、聞きたくないといえば「気が変わったら教えてね」といい、日常の診療では世間話と患者の訴えに耳を傾けることだけをしてきた。それは上記の知識が頭にあったことも理由の一つにある。つまり、僕はAD、ACPはそれを希望する人とだけやるものと考えていたのだ。説得すらしなかった。「僕はあなたが希望するならどんな話でもします。でも逆にあなたが聞きたくない話はする気はありません。あなたが聞きたい話だけを、うそをつかずに・・・それはひょっとしたら嫌な話かもしれないけど・・・することをお約束しますよ」いつも初診時にする話だ。
 人生会議はACPと同じだと思っていたので、希望者のみとするのだろう、知らなきゃ希望もクソもないので情報提供はするが、それでも患者が希望しないのならば、患者に心の準備ができ、希望してきたときにするのだろう。そう考えていた。

 でも、あのポスターの印象は僕の考えとは違った。

 お笑い芸人である小藪さんがいることは僕はどうでもよかった。関西弁であることもどうでもよかった(小藪さんは関西の芸人さんと理解している)。それで茶化しているとは思わなかった。
 でも、死の直前にあまりにもフォーカスしていると思った。さらに書かれている言葉があまりにもネガティブメッセージ、つまり、「~~しないとこんなひどいことになりますよ」というメッセージ性にあふれたポスターだと思った。

僕はあのポスターを「脅し」と感じた。だから不快感を感じた。すべての患者と先についての話をすることは必須ではない。だが、話をしたい患者と先のことを話し合うことは、非常に大きな意味がある。その考え方なら「脅し」は必要がない。
https://twitter.com/Poker_April/status/1199502098284466176

 僕はこのツイートであのポスターを「脅し」と評価している。自由参加が原則のACPとはかけ離れたメッセージではないか! がん患者はしばしば「否認」するというのに!

 このポスターがツイッター上で話題になったときに多くの医療従事者と思われるアカウントが「騒ぎすぎだ」という論調で話をした。「死と向き合わないのか」というフレーズも見た。「腫瘍内科医、緩和ケア医はがんしか考えていない」という論調も見た。改めて見直してみたが少なくともぼくも、あるいは僕の視野にいる腫瘍内科医にも緩和ケア医にもACPや人生会議を「がんにだけある特別なもの」として話をしている人はいなかった。もちろんこの文章でもACPをがんに限定などしていない。
 「死と向き合わないのか」にはこう反論する。一つは人間には死と向き合わない権利はあるということだ。結果、心残りを残したまま死ぬかもしれないし、場合によっては合併症を伴う治療が受けられないかもしれない(例えば手術は合併症の話なしに受けることはできないだろう)。だが、そういうデメリットも理解したうえで死と向き合わないならば、それはその人の生き方だ。二つ目は、「そういう死と向き合わない人がいるから、余分な延命治療が増え、結果医療財政を圧迫する」という意見に対しては、『それは、少なくともACPが、ACPだけが責任を持つ分野ではない』と反論する。ACPが生まれた歴史を考えれば、医療財政を改善する目的でACPは行われるべきではない。ACPはあくまで話し合いだから「その時点でできる延命治療をフルコースでやってくれ」という結論すら当然あり得るのだ。

 また「あのポスターは、内容を見れば当然、健康だった人が突然臨死期になったポスターであるから、癌患者は対象ではないのに文句を言っている」という意見も見た。ぼくはみている患者ががん患者なのでなるほど、癌の患者を想定した。しかし、一般の人や一般科の医師は事故とか、あるいは急性期疾患による急変を想定した。それらは僕にも了解可能だ。一番想定しやすいものが一番最初に頭に浮かんだんだろう。
 でも、だとすればがん患者があれを見て「これは自分のことだ」と思うのもまた自然ではなかろうか。あのポスターには「ただしがん患者を除く」などとは書いていない。国民に向けたポスターだ。対象から除かれていない以上、自分のことだと思う権利はあれを見るすべての人にある。さらに、印刷されたポスターのうちそれなりの数は病院に貼られる。がん患者は見る機会が健常な人より多いと想定される。そしてがん患者は一般の人よりもACPとか人生会議という言葉を知っている割合はおそらく高いだろう。知っている人の中にはACPを「拒否」して、主治医をそれを見守っているかもしれない。そんな人があのポスターを見たらどう思うか。そして患者団体がそんな人の声を聴いて厚労省に抗議しようと思った。僕はその抗議それ自体を責める気にはならない。片木氏は冷静さにかける部分があったと自分で認めているし、それは僕も同意するけども、でもそれでも僕の評価は「こうすればもっとよかった」であって、「そんな抗議ならすべきではなかった」ではない。
 ポスターを取り消せ、やめてしまえという意味ではない。見る人がこういう感想を持つかもしれないという指摘をする権利は、少なくとも患者や患者団体には十分にあるということだ。僕は以下のように改善策らしきものをつぶやいた。


Aprilはどうすりゃよかったと思ってるの?:
「健常時からの話し合いを想定するなら」もっと不意の事故であることを強調する、人生会議という言葉は使わないで、意思表示困難になる前に終末期についてみんな考えましょう的なメッセージを増やす
≒健常者が対象であることを明確にする
https://twitter.com/Poker_April/status/1199874269489979392

 つまり、「終末期患者」を対象から外せばよかった。さらに言えば人生会議なんていう、ACPを冠した言葉は使うべきではなかった。
 この数日で、厚労省の中の人の情報がいくつか伝わっている。曰く中の人はACPを十分に理解していて、その上で無関心層へ広めるために、あえて「尖った」ポスターを作成したというのだ。

言い訳めいていますが、厚労省の現担当も、決して当事者の方たちを傷つけたいと思っていたわけではありません。
ACPについても、長く検討してきましたから、十分な理解はあります。
厚労省としては、自分やその周りの大事な人たちの「最期」について、これまで頭をよぎることすらなかった方々に対し、少しでもそういうことを考えるきっかけにしてもらいたい、その思いで、業者から上がってきたものにゴーサインを出し(てしまっ)たものだと思います。
https://twitter.com/kumehayato/status/1199714585906831360
https://twitter.com/kumehayato/status/1199714585906831360

 自分は正直、この釈明を見ても、厚労省の中の人がACPを理解しているのか疑問に思う。あまりに「最期」に特化してはいないかと。自分はこれを書いている時点では、厚労省はACPをもとに人生会議を作ったけれどもその人生会議はより看取りに特化しており、その際に行われる治療ケアに関する話し合い、すなわちADに近いものになっているのではないか、と思っている。そして、ADの作成率が上がることで「結果的に」医療費削減を目指しているのではないか。今回のポスターはその結果的にを狙いすぎたために、死がクローズアップされすぎているのではないか、とも。これは僕の私見であり、邪推ととる方もいても不思議ではない。

 日本の医療財政が盤石だなんて僕は全く思っていないし、むしろ綱渡り・もしくはPoint of no returnはすでに過ぎてしまっているのかもしれない。そして僕よりも危機感のある人は、死生観に欠ける日本国民(僕もこれは同じ評価をする)にある種のもどかしさ・やるせなさを感じているだろう。そんな人があのポスターを見て、ポスターが話題になって、「よくぞやってくれた」と思う、その感情の流れは理解できる。そしてそんなポスターが撤回されたことに怒りすら感じているかもしれない。
 でも、ACPを何年かやってきた末端の医師である僕でも、ACPは強制するものじゃないし、死だけを見つめるものではないのだとは言える。ACPと死の教育は決して同一視してはいけないと僕は専門家の端くれとして申し上げる。もし、日本人の死生観が乏しいなら人生会議など使わなければよかった。僕はそれならば賛成した(西氏も同じことを書いている)。あるいは、(健常人に対するエビデンスはないけど)無病へのACPを伝えたいなら、せめて「~~するとこんないいことがありました」というポジティブメッセージにすればよかった。これでも傷つく終末期患者はいるだろうけど、それでも減ったはずだ。

 Buzzfeedの岩永氏はこのように述べている:

逆に人がどのように生き死にについて対処すべきか国が啓発した方がいいと医療従事者が考えているとは思わなかった…。
https://twitter.com/nonbeepanda/status/1199726642681135105

 僕はこれは言いすぎだと思う。国が「ACPという方法がありますよ、これをするといいみたいですよ」と啓発することは問題ない。啓発を受けて人は拒否する事由がある。

啓発:人々の気がつかないような物事について教えわからせること
大辞林より

 啓発するのは悪いことではない。またこの先不幸にして医療財政が悪化し、「国民が希望しようがしまいが、このような治療はしません」と制限をする時代が来るかもしれない。治療の制限はACPの考え方とはむしろ逆の考え方だけど、「大多数がそれによって幸福になる」もしくは「それをしないと大多数が不幸になる」状態で、国が厳しいかじ取りをすること、そこまで僕は否定する気はない。
 厚労省に対して嫌気がさしていることの一つは、厚労省は個人の意向は大事ですよ、個人の意向は尊重すべきですよ、と口では言いながら、制度の設計で医療従事者の手足を縛っていることだ。経営を考えれば「患者の意向に関わらず」早期退院にせざるを得ないし、在宅治療にしなければならない。そうしないと経営が成り立たない。「国民は在宅を希望しているからそういう制度設計にしたんですよ」という言いぶりで。じゃあ、ACP後目の前にいる入院継続を希望する患者は国民ではないのだろうか? 「国の財政には限界があります。終末期患者を病院で死なせる余力はありません。ですから家で死ぬようにしてください」と胸を張って言ってくれれば現場の自分たちもやりようはある。
 邪推ついでに、今の時点で厚労省はポスターの取り下げを迅速に行ったのみで「こういう意図であった」という釈明は非常に乏しい。

この度、「人生会議」の普及・啓発のため、PRポスターを公開したところですが、患者団体の方々等から、患者や遺族を傷つける内容であるといったご意見を頂戴しております。
 厚生労働省としましては、こうしたご意見を真摯に受け止め、掲載を停止させていただき、改めて、普及・啓発の進め方を検討させていただきます。
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_02783.html

 この書き方も気に入らない。インコースを狙ったのではなかったか。「こうこうこういう意図で作成しました」という説明はあってよかったのではないか。こんな書き方をされると、上に書いた医療費削減を目指しているという僕の「妄想」は正しくて、でもそれをそのまま書いたら、もちろんACPを理解していないことの証左になってしまうから書けなかったのではないか・・・と。妄想であればいいのだが。

 長くなったが、僕の意見をまとめると、最初のとおりである。

【僕の私見の要点】
1)日々の診療で僕は特に日本人は「死への意識は足りない」と思っている。
2)なので、日本人一般に死を意識させるポスターは必要悪ではないか、少なくともやってみる価値はあるのではないかと思っている。エビデンスないけど。
3)でも、2)の目的のポスターは決してアドバンスケアプラニングじゃない。今回の小藪さんのポスターはアドバンスケアプラニングを冠した「人生会議」を使わなければ、少なくとも僕は賛成してた可能性が高い
4)ポスターの小藪さんは僕は嫌いじゃない 茶化してるとも思わない。だからそこに問題があるとは僕は思っていない。

 こうなる。少なくとも、あのポスターはACPじゃないし、ACPじゃないものに人生会議という言葉は使ってほしくなかった。声を上げた団体の構成員は、国民一般の平均よりACPを理解しているだろうから、あのポスターで傷つくのは当然あり得るだろうと思う。表現の自由は無批判の自由ではない。僕は団体が声を上げたのは自然だし、それは言論統制とは真逆の行為だと思う。

 僕はこれからも僕がかかわる患者とACPを行っていくし、ツイッターでは「死の教育」も行うと思う。自分ができる範囲で。


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