見出し画像

認識・・・とは?

茂木 健一郎さんの「クオリアと人工意識 」(講談社現代新書)を読んでいる。
まだ第4章までだけど、とても面白く、色々なことを考え、思い出し、繋がっていく感覚がある。

私の外部にある事象は私の認識でしかなく、私の一部である。そこにあるものが本当にあるかどうかという客観的な事実と、私の脳内表現である認識とは無関係である。

目の前にある机や、赤い花や、そういうありとあらゆるものの実在と、脳内で人間が認識しているものとの関係性。原則としてそれは無関係であり、我々はそこに整合性を期待して生きているだけだ、と。

カントの世界だ・・。考えようとすると、頭の中がごちゃごちゃしてきて、なんとも変な感覚におそわれる。

と思ったら、表象の概念を表す言語の特性として、ドイツ語はゼロからイチを生み出すニュアンスを持っていて、もともとあったものを表象する概念しかない英語とは大きな違いがあるらしい。
英語は分析哲学よりで、科学や数学と相性がいいが、ドイツ語のように底の抜けた概念を表現できない。
その意味では、日本語もドイツ語とおなじく観念的な気がするけど。

そういえば、マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」 (講談社選書メチエ)に書かれている考え方というか世界の捉え方(新実在論)も、やっぱり同じ延長線上にあるように感じる。

全てを包含する一つの世界は存在しない(存在を確認するには外部が必要だから)けど、自然科学で確認できないものでも実際に存在する、というやつだ。たしか、ファウストを読んだ人にとってメフィストフェレスは実際に存在するのだ、という例が書かれていたと思う。

やっぱり、こういうふわっとしたものを考えるのは「ドイツらしさ」の象徴なのかもしれない。

日本の例でもひとつ思い出した。かつて河合隼雄は村上春樹との対談の中で、平安時代の人にとって幽霊のようなものはリアルな存在だったはずだ、と言っていた。それはまぎれもなく、客観的事実として存在し、共通認識とされていたはずだ、と。(そうじゃなければ、源氏物語がああいう形では存在しなかっただろうと)

どれもこれも、自然科学的に存在が確認できるかどうか、ということとは関係なしに、人間は脳内で実際の存在をありありと感じることができる(というか、そういう仕方でしか確認できない)という例だ。

そんなあれやこれやに思いを巡らせていたところ、インフルエンザの予防接種を受けて帰ってきた次女が帰ってくるなり発した言葉が心に残った。

「グミの気持ちがわかった!!」

注射の針が腕に刺さる瞬間をまじまじと観察し、腕の表面の弾力をものともせず入ってくる針をみて、自分の歯にかまれる瞬間のグミの気持ちになったそうだ。

あまりに独特な感想だと思うけど・・・(笑)、彼女にとってはその感覚にリアリティがあったのだ。
そして、その気づきに心奪われていたからか、今日の注射はいつになく痛みを感じなかったらしい(笑)

きょうは、本当に、脳は不思議で面白いなーと思う一日でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?