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お母さんをお助けするお店。絵本の店 星の子オーナー高橋清美さん

”本好きなこどもをたくさん育てたい”という想いを持ちながらも、”本よりまずは自然体験が大事!”とおっしゃる元保育士の高橋さん。若き時代を熱情で走ってきた、保育者であり店主の高橋さんの生き方についてお話を伺いました。

高橋清美さんプロフィール
出身地  神奈川県相模原市
活動地域   東京都大田、目黒、世田谷区
経歴及び現在の活動  保育士として24年間勤務ののちに、児童書専門店”絵本の店星の子”を大田区の住宅街でスタート、現在はくすくす子どもの本の会を立ち上げ、星の子文庫をはじめるなど活動中。
座右の銘  老いて反省した時に悔いなきように


豊かなものを子どもに伝えたい

記者 どんな夢をお持ちですか?
高橋清美さん(以下、高橋、敬称略)一番心配しているのは、なにもかも便利になって頭を使わなくてもよい。日常、自分でものを読んだり、思索したり、コミュニケーションを取り合うという楽しさをこれから先の人は体験するのかな?未来はどんな世の中になっちゃっているのかな、と思うんです。小さな子どもは、本当は本を読んで育つのではなく、本に出会う前も出会ってからも自然の中で育ってほしい。ブックスタートといって日本中0歳から絵本といっていますが、私はそうじゃないと思っています。言葉をきちんと覚え、言葉の意味がわかり、お互いにコミュニケーションできるようになってはじめて本の世界に入れる。2歳半くらいから絵本だと思っています。その前のときは何をするの?といったら、5感を豊かに育てることだと思うんです。それはやっぱり自然の体験。家の中にいたらなかなか出来ることではありません。自然に触れ合っていくことがそうだと思います。それがなにより。よく、いろんな果物を、洗って、皮剥いて、はいどうぞ、というのが絵本で出てくるんです。私は、そんなことしなくたって、”ほらほら、これなんだと思う?これ、りんご。触ってみる?いい匂いするよ。これ、食べられるのよ”といって、その子の目の前で皮剥いて“はいどうぞ、食べてみてどんな味?”ってそっちのほうがどれだけ子どもに豊かなものが伝わるかしら、と思うんです。シュタイナーで、生まれて7歳までは夢の中といいますが、子どもをいじるな、と。私も保母をしていて、3歳くらいになると、バイオリンだピアノだスイミングだと、ひっきりなしに子どもたちにさせたり、長続きしないと、卒園するまでにどれだけの習い事をやってやめたの、っていう、子どもがいっぱいいるんです。そうやっていじらないで、もっと自然に、ふつうにしてあげて、たくさん自然と触れ、絵本に入るまでおうちでは、おぎゃーと生まれたら、できれば、日本のわらべ歌を謳って聞かせてあげてほしいし、わらべ歌を自然を見ながら歌ってあげる。人間の言葉にもリズムがあってそのリズムがとても面白くて。もちろん、詩とか、面白い言葉遊びとかは、聞かせてあげてほしいし、だけど、リズムがあるものって、もっとおもしろいので、子どもたちはほんとによく聴くんです。そうすることによって、面白い言葉みたいなものも覚えていくし、言葉に対する興味もそれを通じて感じていきますので、そうやって育んでいく。ご飯食べるときも無言じゃなくて“じゃご飯食べようか、これは何々よ”、っていう風に、オムツ変えるときも、“これからオムツ替えるね”、って、そういう人と人とのコミュニケーション、共感関係を幼いときにたくさん通わせてあげて、それが基礎になって人間社会はそれの延長線上にあると私は思うんです。機械化が進んでも、人間として大切なものはずっと残り、それを喜びとし、そこからたくさんのものを伝え合っていける、そんな世の中であってほしいと思います。

本好きな子どもをたくさん育てたい

記者 日々されていること、また、夢を具現化するための目標計画について教えてください
高橋 かつては、呑川の自然観察会や、夫が星空が好きなので、上に屋上を作ってもらって、星空観察会もしたり、ザリガニ釣り、などしていました。今は、絵本の勉強会をしています。子どもの本の読書会で指輪物語を読んでいます。“わらべ歌お話の会“といって、お母さんに小さなお子さんと来てもらって、私がわらべ歌を一緒に遊びながら伝えて、あとはちょっとした本を読んだりしているのと、大人のためのわらべ歌の会というのがあって、お母さんや保育園幼稚園の先生、子育て支援のボランティアされている方がいらして、わらべ歌を覚えていただいて、それぞれのところで伝えていただくようなことをしています。集めた本が結構な量になったので、家の2階に今本がたくさんあるのですが、仲間に手伝ってもらって、ちょうどこの6月からは星の子文庫を始めました。
0歳から大人まで児童文学に興味のある方に貸し出しをします。
娘が2人いますが、後を継ぐ予定はないので、お店を閉めたらそれまでですが、文庫は今一緒にやってくれている方々に引き継いでもらえるし、私が子どもたちに伝えたいという本をその方々が引き継いでこれからも伝えてくれるんじゃないかなという想いで文庫も併設することにしました。
子ども文庫はここのお店としてするのではなく、くすくす子どもの本の会というのを仲間の人たちと立ち上げて、そこが文庫をして、今は、夏休みの最後の日に夜のお話会をしましょうかということでその計画もしています。この地域でその会を残して、講演会をしたり、それも仲間たちが継いでいってくれたら良いなと思っています。主に子どもの本の勉強会でずっと何年も一緒に勉強している方たちなのですが。読書会は、指輪物語を今読んでいますが、その前にも完訳グリム、アンデルセン、ピーターラビットなどを読んだり、その中にずっと続けている人がいて、声をかけ、その人たちも含め8人くらいの方々と作りました。地域に残せるものは残してきたいし、広めていきたいし、本好きなこどもをたくさん育てたいんですね。子ども本の会は、中原区、宮前区辺りには、大きな会があるのですが、この地域の中でそういうものを少しでも残し広げていくということをしたいと思っています。

お母さんたちをお助けするようなお店

記者 保母さんをされていた中で、本のお店を出されたきっかけはなんだったのですか?
高橋 仕事をしているときから保母はきつい仕事で、腰痛もあったので定年迎えてからも現場で働く自信はなくて。やはり本が好きなんですよね。児童書の専門店みたいなのができたらいいなという夢は持っていました。
 保育者をしている中で、途中からわらべ歌を取り入れた保育を実践してきました。ハンガリーの保育を見本に、ハンガリーの保育をされている方々を講師に招いた勉強会に参加したり、わらべ歌から入ったのですが、要はハンガリーの教育をしてきたんです。その保育を、勉強したことをきっかけに、かつてはミニカーとか、ブロックとか、積み木とか、人形もやったのですが、その都度、これで遊びましょうといって、また違うのを取り出して、という風に保育をしていました。学ぶ中で保育室の中に、ままごとのコーナー、本を読むコーナー、積み木とかをするコーナー、お絵かきが自由にできるコーナーなどを設けてやっていました。ニキティキさんという、ヨーロッパのおもちゃを入れているお店なのですが、そこで働いている方を通して、ドイツを中心としたヨーロッパのおもちゃを知ったんです。それを保育の中にも取り入れていきました。お値段は高いのですが、そのおもちゃは、パーツがなくなれば、そのパーツだけ補充出来て、壊れたら修理もしてくれるおもちゃなんです。主に木を中心としたおもちゃでした。本当にあったかい木のぬくもり、高いけど、おもちゃとは本来こういうものであるべきじゃないのかしらと学んだんです。絵本の店を開いたときに、ぜひお母さんたちにこういったおもちゃをご紹介したいということで同時におもちゃを入れることにしました。人形は、軍手軍足でみんなで手作りしてこどもたちに使ってもらっていたのですが、結構ぼろぼろになりやすいんです。シュタイナーのウォルドルフ人形というのがあって、ドイツの田舎でお母さんたちが作っていたのが原点らしいのですが、既製品は売らないんですよね。孫とか子どもとか姪とか身近にいる大人がその子のために作ってあげるお人形なんです。キットは売ってるのですが、そのお人形に出会って、羊毛を詰めたあったかいもので。それの講習会をしたり、私のお店は絵本屋なのですが、子育てを一生懸命なさっている、核家族化に今なっている、お母さんたちをお助けするようなお店という風になっているかなと思います。 
 だけど、商店街みたいなところじゃないとお店はムリだろうと思っていたところ、夫が“ここですれば?”と。え?こんな住宅街の真ん中で?と思ったのですが、夫が、“ここだから出来ることがあると思うよ”、と言ったんです。それもそうだな、と思って。いろんな行事もここならまだまだ自然もあるし、活用できるスペースもある。ということで、本当は絵本屋だけやるつもりだったのですが、やっぱり保母としての感覚が出てきてしまってこのおもちゃとかこの人形も、となっていったんです。

私は、いったい何のために生きてるんだろう?

記者 そもそも保母さんになられたのはどういう背景からなのですか?
高橋 私は昭和17年に生まれて、父は、米軍のところで自動車修理工として働いていました。横浜で生まれて3歳半から相模原で育ち、父がお給料日に、私と妹のために「少女ブック」と「少女クラブ」という雑誌を月1回買ってきてくれるんです。それをむさぼるように読んで、次は妹と交換をしていました。春夏秋冬、野山で遊び回って。おこがましいですが、その体験が私の感性感覚を育んでくれたんだな、と思っています。児童文学のような本は読まずに育ちましたが、高校くらいから大人の文学に入って本が大好きになりました。
 そのように貧しく育って、3人きょうだいの長女で。米軍も縮小して、父は希望退職に応じて転職したのですが、それがうまくいかず荒れていて、私がちょうど高校時代です。本当は大学に行きたかったのですが、言い出せず、バイトして自分で稼いで、という方法もありましたが、自分で稼いだお金を自分で使うという状況ではなかったんです。就職して、実家にいながら働いて、お金も入れていました。
 ただ、その職場で定年まで過ごす気になれませんでした。人と接する仕事がしたかったですね。
 実は、小さいこどもは苦手だったんです。言うこと聞いてくれないし。好きなことするし。先生になるとしたら小学校の先生と思っていました。でも子どもを育てながら、子どもに教えられたんです。小さくてもわかるんだ、と。小さな3歳のこどもを抱えながら出来ることはなんだろうと考えました。今置かれている環境の中で、小さなこどもにも魅力を感じたし、保母を選びました。夫は全面的に協力してくれて、ピアノを初めて触るところから習い始めて国家試験受けて、資格を取って保育者になりました。わが子が通っていた保育園が私立だったんです。先生たちは本当にとてもいい方ばかりで、当時、小さい子どもを抱くので、頚腕(けいわん)症候群という腕の病気になることがあり、それを労災認定してくれと先生たちがやっていらしたんです。私は親でしたが、それを一緒になって支援をしたりしました。入るならここに入りたい、という思いが出てきて。父母の会もしていたので、大量にそのとき10人くらい辞められて。で、園長先生がそれを認めてくれたんです。娘が通っていた保育園に保育者として入りました。そこでも、公私格差もあって、賃金が安かったので、保育者の賃金を是正してほしいとか、子どもの人数も、1人に対して5人だったのを3人にしてほしいとか、よりよい保育をしたい想いでいろいろやりました。娘は5月から転園して、24年そこで働きました。

記者 一番のターニングポイントは何だったのでしょうか?
高橋 あの当時、職場は女性はほとんど高卒でした。みんな女性はお茶汲み、コピー、お使い、掃除、雑用で、22歳くらいになると結婚して退職します。18歳でそこに行って20歳のときすごく悩んだんです。そんなにどうってことない仕事をするために、毎日電車に乗ってきて帰って、その繰り返しで。大学へ行くことも探ってみたり、福祉のこととかもしてみようかと思ったり。そのときに、エネルギーはふつふつと湧いてきて、何かに一生懸命エネルギーをぶつけたいと思うのに何にぶつけていいかわからない自分に涙が出てきて。家に帰る途中駆け出した、その時の私を思い出します。一体なんで生きてるんだろうと。生き甲斐探しをしていた、その時期が一番苦しかったですね。
それで出た結論は、私が、22、3歳になっても、私が悩んだこの状態は残る、変わらない。だったらこの職場を少しは働き易いところに変えなければ、ということだったんです。“私にも働き甲斐がある仕事をください”と上司に言ったり。その上司は少し理解のある方だったので、講演会に行かせてくれて。そこの職場で労働組合の運動に目覚めました。そこを変えていく以外にそれしかない、と。それを通して世の中のことに目が見開きました。そこに生きがいを見つけたんです。実家を出て独立して生活していたので、“住宅手当をください”、と会社に要求したり、いろいろしました。父の反対を押し切って一人で生活したいといったら、猛反対して勘当されました。そういう時代です。女が一人で独立してアパートに住むなんてとんでもないという時代。それでも押し切って出ました。労働組合のことはするな、そんなことするのはアカだと、そんなことしてほしくない、と母からも反対されて。入っていた労働組合は割と強くてストライキや労働者の権利を守るためにみんなで組合あげてやっていたんです。メーデーにも行くし、女性の権利も要求を出したし、妊婦の人も切れる制服をデザインして発注したり、働き易い職場のためにずいぶんしました。住宅手当も女性だからといって一人で生活している、ここの条文からいったら私たちももらえるんじゃないかと会社に提訴したり。
 夫ともそのような組合活動で出会いました。ほとんど誰も取ったことのない産前産後の休暇を取ったんです。育児時間も取りました。お見合い話を23歳くらいから持ってこられるんですが、自分の生き方と共鳴する、ものの見方考え方が一緒の人じゃないと嫌だと組合活動を通じて思って。結局29歳で結婚して、30歳で出産しました。当時はみな、22~28歳までには出産していた時代です。実家に帰るといろいろ言われるがここで妥協したくないと。トイレに入って泣いたり。それが正しい、というのが自分の中にあったんですよね。

記者 本日は貴重なお話をありがとうございました。

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             《左から坂中、高橋清美さん、西尾》 ー 高橋撮影ー

編集後記 ”ここは、地面に繋がってる感じがして好きなんです”お店に併設されたお部屋で、そうおっしゃる高橋さん。湧き出てくるエネルギーを何かにぶつけたい、悩んで悩んで、自分の生きる道を見つけられたその姿勢態度に胸を打たれました。今回お話を伺い、時代が目まぐるしく変わる中でも、心が繋がっていく世の中を作っていきたいという想いを新たにしました。高橋さんの美しい意志が、今後もずっと引き継がれていくことを願っています。

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