見出し画像

しずかな場所がほしくて(定期購読マガジンはじめます)

こんなことを言ったらごうまんに思われるだろうなとか、あらぬ方向から批判されたりするんだろうなとか、こんなことをしたらもう取り返しのつかないことになるんじゃないかとか。

そんな思いがぐるぐると脳内をうずまいて邪魔をして、自分のほんとうの欲求や気持ちにうすうす気づきながら、それにしずかにフタをすることがある。「いや、でもこっちもいいもんだよ、これでいいんじゃない?」と、自分に自分でうそをつく。

そういうものが積もってゆくとどうなるか。

わたしのちっぽけな脳みそで推測するかぎりだと、その行く末はふたつにわかれるように思う。

ひとつは、その状態に慣れて、自分が本来持っていた欲求のほうを忘れてしまうという方向。「まあ、いい状態だよねこれも、いいよねえ」。そう思いつづける中でいつのまにか、その状態で自分が「満たされている」と錯覚するようになること。あるいは本当に、それで満たされるようになったのかもしれない。それで満たされるように、自分自身の考え方が変わったのかもしれない。その場合は、もはやそれでもいいのかもしれない。りんごかもしれない。好きだよあの絵本。

そしてもうひとつは、自分の本来の欲求とズレたところで発展してゆくあらゆるものごとに対応しきれず、ぱちん、と風船のように破裂してしまうという方向だ。ひとつひとつはしずかにフタをして、見ないようにしてきたはずのものものが積み重なり、もう見ないわけにはいかないくらいの量になっていて、その量に押しつぶされそうになる。むぐぐ、むぐぐ、と思いながら積み重なってきたものは、あるときその限界を越えて、はじけるのだ。

ぱちん!

noteやtwitterを留守にしてひさしい。

コメントやDMなどは連絡があれば見ていたが、タイムラインはもう本当に眺めていない。いや、正確にいうと仕事や身内などの状況確認でtwitterをひらくことはあるのだが、意識して全体のタイムラインはすぐに閉じ、必要なアカウントのみの動向をチェックするようにしていた。

まあこの暑さじゃ夏バテもしているし、それから少し前にちょっとメンタルに大きなばんそうこうをペタペタと貼りたいような事象があって、noteやtwitterなどを含むSNSの使い方や、ひととつながること、つながらないことなどについて、自分なりの心地よいあり方はどういったものなのだろう、と思いあぐねていたのだ。

ところでジブリの『猫の恩返し』の中でさ、主人公の女の子が最初はむりやり猫の国につれていかれて、でも過ごしているうちに「なんか、猫の国も悪くないかも〜」とかちょっと心がなびくと、猫のひげが生えたり耳が生えたり、どんどんからだが猫になっていってしまうという描写があるんだけど。そんなときに味方の男爵が「ダメだ!自分の時間を生きろ!」みたいなことを言うシーンがあるんだよね。あれ。ハッとしてしまう。

SNSもまぎれもなく自分の時間を活用するために使っているはずなんだけれど、使い方を気をつけないと、自分よりも他人の時間を生きてしまったりもする。

……というのはわたしの話で、もちろん基本的にオンライン体質で、むしろそういう世界にどっぷりいるのに全然動じない、つまりはバランス感覚に非常にすぐれているひとたちもいるから、一概には言えないんだけど。わたしの夫もまさにそのタイプなので、わたしがうじうじ言っていると「……たいへんそうだなあ」という他人事感満載のコメントとともに憐れみの表情で見られる(笑)。その自と他とのバランス、見習いたいであるよ。

まあ先述した「自分なりの心地よいあり方」をウンウンと考えたところで、ぱっと「さあ!これが解です!」とあらわれるとはつゆほども思っていない。

だから、タイムラインを漂わなくなった時間でまず何をしていたかというと、とりあえずはパサパサに乾いた心をうるおすべく、オアシスで水をのむように、自分がかつて好きだったものや、好きだったことを再インプットしたり、その延長線上にあるものを新たにインプットするようにしていた。

たとえばわたしの場合なら、関取花ちゃんやiimaや宇多田ヒカルさんの音楽を聞いたり、穂村弘さんや角田光代さんの文章を読んだり、宮沢賢治さんの『春と修羅』にいまいちど対峙して「心象スケッチ」の意味に思いを馳せてみたり、好きな英語の勉強を再開してみたり、さびつきすぎた英語脳をなんとかせんと、英会話の集まりに出かけて若かりしころの思いを思い出してみたり。ジブリの名作を観返して、『耳をすませば』のお父さんのセリフが心に刺さったり。あとは好きなひとに会い、会話に付き合ってもらったり。

やっていたのはつまりシンプルに言うと、読む、聴く、観る、行く、会う、というもので。書く、という行為はプライベートにおいてはほぼ封印していた。絵本の記録noteはつづけていたけれど、あれは記録がメインなので、ちょっとおしごと感覚に近い。わりきりスイッチで書ける。

で、何が言いたいかというと、わたしにとってこれほどまでに自分の文章を「書きたい」と思わなかったのはいつぶりだろう、というくらいにめずらしいことだったということだ。どうやら乾いた心は「パサパサ」どころではなく、水分が抜けすぎて「カッチンコチン」だったのかもしれない。

水をやっても、表面をつうとすべってゆくようで、まず湿らせて吸い込む土壌をつくるのに時間が要った。そうしてふやかして、少しずつ、読んだり聴いたり会ったりすることで水をやった。

SNSから離れているあいだ、あらためて自分というものを見つめた。

宮沢賢治風にいうなら「わたくしといふ現象」である。なんなのだ、あの『春と修羅』の序文の書き出しは。そう、その序文は「わたくしといふ現象は……」と始まるのである。わたしには一生かかっても、あんなに透き通った文章が書けるとは思えない。極めて冷静で、それでいてとても美しい。というか、彼のまなざしで世界をみつめることができないのだ。自分には理解しきれなくて、でもだからこそ、彼の目に世界がどんなふうにうつっていたのか知りたくて、何度もことばを味わう。

話はずれたが(いつもどおり)、とにかくそうやって自分というものを見つめてみた。いろいろとやってみたいことはぼんやりと思い浮かぶが、そのたびに「でも……」とついてくる。でもこうしたら、こうなりそうだし。どこかの誰かに嫌われちゃうかもしれないし。冷たい目で見られるかもしれないし。でもでもでも。

そんな風に脳内をぐるぐるさせていたときに走り書きしたのが、冒頭の文章だった。書きながら思った。ああそうか、わたしもしかしたら、いま「ぱちん!」と来ているタイミングなのかもしれないなあと。

数年前、noteという場所を見つけて、最初は「だれにも知り合いに見られない安心感」とともに、心のうちをつづっていた。年月があれば変化があるのは健全なことで、noteもユーザー数が増え、いろいろと変化してきた。その中でユーザー同士の交流も増えた。わたしもそれに励まされたり、心温まったりしながら楽しんできた。

交流が生まれるのは楽しい。それはまぎれもなく事実だし、わたしは画面の向こうにいる人の存在を感じるのが好きだ。

ただ、わたし自身がしっかりとしたバランス感覚の持ち主ならば何も問題ないのだけれど、問題はわたしのバランス感覚がときどき狂ってしまうことだ。人の存在を、感じすぎてしまう。そうすると、少しずつ少しずつ、本来の自分の心地よいあり方とは別の方向に、ズレていってしまうようなのだ。

リアルの世界で生きる本来のわたしは、クラブやパーティなど人口密度の高い空間や大きな音が鳴り響く空間が苦手だ。空間でいうなら、図書館や、ちょっと人がまばらな電車の中が好きだ。ちなみにひとと話すことが嫌いなわけではない。気の合う友人や知人とじっくり会話することはむしろ大好きだ。ただ気の合わないひとといるくらいならひとりを好む。

がんばることをやめて、無理せず自分本来のそんな性質に向き合ってみたとき、ふと、「ああ、しずかな場所がほしいんだ」と思った。

初期に、大海原のなかにそっと小さな笹舟を放つみたいに、自分の文章をnote内に放っていたのがなつかしい。反応がかえってくるとうれしかったけれど、かえってこなくてもべつに書くことをやめようとは思わなかった。

風が気持ちいい小高い丘で、目の前に海が見えて、木陰で紅茶でも飲んだりしながら書くような。当時のわたしにとってnoteはそんな「場所」であり、そこで書くこと自体が好きだったのだ。

もちろん今でも、内容を深くくみとってくださったような方から、丁寧で好意的な反応がかえってくるとやっぱりうれしい。「ありがとう、もっとお話しましょう」と言いたくなる。けれど、意図しない方向からの反応には「ああ、ひとりになりたいな」と思ってしまうやつなのだ。しょうもないけど、そういうやつなのだ自分は。率直にいえばわたしは、自分のために書きたいのだと思った。自己満足だ。自己を、満足させたいのだ。

海の見える小高い丘で、しずかな場所で。そんな場所で、また書きたいなと思った。気の合うひとたちが時折、訪ねてくれたらなお最高だけれど、その保証がないとしても。自分の書くものを、ほんとうに書きたいと思うものを、守りたいなと思ってしまった。

守りたい、っておいおい。本を出しているわけでもないし、ライターとして有名なわけでもない。そんな自分がこんなことを書くなんて、と思いながら書いている。でもそう「思う」のに著名であるとか、そんな条件はいらないのではないかと思った。わたしは、わたしの書くものを守りたい。ただの欲求を記しただけだ。

しずかな場所、守られた場所、気の合うひとたちとつどえる場所。

そう考えていて最初に思いついたのは、やっぱりnoteの定期購読マガジンだった。この数年間、どぷりとnoteにひたっていて、他の選択肢を先に思いつけというほうが無理がある。

でもなあ……。

もちろん、いくつもの「でも」が頭の中をよぎった。

そもそも著名人でもなんでもないわたしの書くエッセイを、お金をはらってでも読んでみたいよと言ってくれる方なんているのか。読者ゼロでも、有料の取り組みをはじめたというだけで「ちょっと古株だからってだけでわーやな感じ」と線をひかれてしまうのか。あんたのnoteにスキ押してたのなんて、無料で読めるからに決まってるじゃん。作家気取りが、出直してこいや。妄想力には自信があるので、いろんな役回りでことばが浮かぶ(笑)。ああもしかして、せっかく数年かけて培ってきたnoteの居場所を、わたしは自ら手放そうとしているのではあるまいか?

それでも、いくつもの「他人のことば」をぐるぐると頭の中でころがしたあげく、最終的には「まあ、やってみよう」と思った。やってみなはれ。あんたさん。

たいていのことは自分の思い通りになんてならない。道は間違うもの。そう思っておけばだいじょうぶだと、いつか誰かが言っていた。それならわたしは、だいじょうぶだ。

それに、定期購読マガジンをやろうと思った背景はもうひとつある。

強がるのをやめたら、正直なところわたしはずっと「ほんとうはnoteで書いてきたような日常エッセイが仕事になればいいのになぁ」と考えていた。

今、仕事ではインタビュー原稿や、プレスリリース原稿などを書くことが多い。インタビューは魅力的な生き方をしている人に会って話を聞けるし、自分を通してその人の魅力を届けるお手伝いができるのはうれしい。プレスリリースでは表に名前は出ないけれど、企業の経営陣とやりとりができておもしろく、やりがいがある。だからそういうお仕事も続けていきたい。

だけど、自分がほんとうに書きたくて書いているような、日常のとるにたらないことを書いたエッセイでお金を生み出せるしくみがつくれたら、自分の人生にとってどんなにすばらしいことかという思いも、やっぱり消せないのだ。こんなことを言ったら笑われるだろうか。でも、でも、でもなのだ。

たとえば、いま全然具体的な話があるわけではないけれど、近い将来、もしかしたら第二子を授かることもあるかもしれない。そして取材にもでかけられない育児期、ほそぼそとでも、時間や内容が自分で調整できる仕事があれば、とも思う。

どこまでも正直にいうと、わたしは育児ブランクが怖い。社会と隔絶され、孤立したあの時間が怖い。ようやく自分の仕事が少しずつまわりはじめて自分をとりもどし始めたというのに、またゼロからのリスタートになってしまうのかもしれないと思うと、いろんなことに後ろ向きになってしまうのだ。

そういう意味でも、やってみたいな、と思った。うまくいかないかもしれないけれど、まずはやってみないと、ずっと願望だけが残ってしまう。「やってみたけどダメだった」のほうが、まだずいぶんとわたしらしい。

定期購読マガジンのタイトルは「とるにたらない話をしよう。」にした。

これまで書いてきたとおり、初心をとりもどしたい、そしてそのテンションを保って続けてゆきたい、と思っているからだ。

広い広い大海原にそっと笹舟を浮かべるような、ささいなことを描いたエッセイを、次々と放っていきたい。「まじでどうでもいいんだけど、でもなんか落ち着くっていうか、一気に読んじゃうんだよなあ」って、苦笑まじりに言われるようなエッセイを、書いていきたい。

子育てのこともときには登場するけれど、それをメインにはしないようにしたいなと思っている。育児はわたしのトピックのひとつではあるけれど、すべてではないから。子どもがいてもいなくても、20代後半〜40代くらいのいろんな大人が、ひとりの人間として、クスッとしたりときにはじわっとしたり、そういうものが書けたらいいなあと思っている。目指す。

ところで定期購読マガジンを開始するにはnote運営の審査が必要で、その申請フォーム内に「マガジンの内容」という欄があるのだけれど。

たぶんここは「こんな実践的で役立つ内容を届けます!」とか「ブログでこのくらいPVあるのでこのくらい集客見込めます!」とか、そういったアピールを書くのが正しい使い方らしいのだが、なるべく役に立たないことを書こうと思っていて集客も見込めないだろうわたしはこんなことを書いた。

日常や食べものなどにまつわるエッセイを書きます。実用的ではないけれど、読んだひとの気分がチューニングされたり、肩の力が抜けたり、よく眠れたりするような、読みものとして楽しんでもらえるものを書いてゆけたらと思います。

こんな、やる気があるのだかないのだかわからないような「内容」でかろうじて審査を通してくれた運営さんには感謝である。

でも、巷では「その日に審査通過の連絡がきた」なんて声も聞くなか、わたしは1週間も首を長くして結果を待ったので、きっと「おい、どうするよあれ」「あー、あれね。ふざけてんのかな」「集客も見込めないしね」「ま、やらせてみたら(苦笑)」なんていうやりとりがあったのかなあと妄想している。

どういうやりとりがあったにせよ、とりあえず定期購読マガジンができた。

ちなみにたとえ読者がゼロでも、納得できるものが溜まっていったら、選りすぐりを集めてちっさな本でも作れたらいいなあ……、と妄想している。方法なんて知らないけどこれから考える。だから誰にも読まれなくても「いつか本にしてやるんだ」というモチベーションでひとりもくもくと投稿していこうと思う。

そんなふうに強がってはいるけれど実際、わたしの書くエッセイを好きだと言ってくれる方に遊びにきてもらえたら、それはほんとうに嬉しい。たとえばひと月分試しに読んでみて、つまらなかったらたとえ知り合いだろうと、さらっと退会していただいてかまわない。そこは無理しないでほしい。

というわけで月に1回「カフェでコーヒー1杯を買うお金をぽこねんのエッセイに転換してやろうかな」と思う奇特な方は、どうかこちらからご購読を。

審査が長引いて8月は中旬のスタートになっちゃったけれど、その分更新頻度を高めて、かつ初月の満足度をあげるべく月4本より上乗せで、どんどんアップする予定ですので、お楽しみに(審査待ってる間にストック溜まっちゃったので……)。

それじゃあまた。しずかな場所でお会いしましょう。

(おわり)

【2020.5月追記】半年間、たんたんと書きためてきた定期購読マガジンのエッセイをまとめ、紙の本をつくりました(↓)。 BOOTHにて販売中です。


自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。