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うまれたそのしゅんかんに


あなたに

大きな声で泣くという才をあたえましょう

ことばをはなすことはできません

じぶんでおきあがることも

ねがえりをうつこともできません

ただ

大きな声で ちからいっぱいに

泣くという才をあたえましょう

 

声をだしてわらうことも

えがおのひょうじょうを つくることも

さいしょは できません

まず なによりも

泣くという才をあたえましょう


それがゆいいつ

あなたが このせかいに

じぶんのきもちを しらせる

ほうほうなのです


あなたに

大きな声で 泣くという才をあたえましょう

まわりの おとなが

どうしても だきあげてしまうような

どうしても ほうっておけなくなるような

ひびく ひびく

泣き声をさずけましょう


それが ゆいいつの ほうほうなのです


あなたは 泣くことで

おなかを満たし


泣くことで

からだの せいけつを たもち


泣くことで

だきあげられて ゆらゆらと 

あたたかなうでに 

つつまれてねむるのです


そうして すこしずつ 

すこしずつ

おおきくなるのです


だから いまは

ちからいっぱいに 泣いて

あなたの すべての きもちを

泣き声に かえて

しゅちょう するのです


それが ゆいいつの

生きる ほうほう なのですから



* * *

【あとがき】

1歳の娘がイスを押しながらすいすい歩き回っているのを見て、ふと「ああ、できることが増えたなぁ」と思った。

生まれたばかりの1ヵ月間は、ほんとうに泣くことしかできなかったのになあ、と思ったのだ。笑顔の表情すらも最初は存在しなくて、1ヵ月以上経ってからはじめて笑った。

そんな娘を見ていて、「ああ、喜びや楽しいという感情を伝えるよりも、生きるためには本能的に『泣く』という行為が優先的に備えられているのだな」としみじみ感動したのだった。

せいいっぱい、泣いて、泣いていたなあ。

新米母ちゃんは、何をしても泣き止まないきみを抱きかかえて毎日オロオロしていた。すこしくらい泣かせておけばいいよ、といわれて試そうとするのだけれど、きみの泣き声はそうさせないように、母の頭とこころにガンガンひびいた。本能的にインプットされているんだなと思った。そんなことを思い出した。

ほんとうに泣くことしか、できなかったなあ。

おとなと赤ちゃんでは前提がちがうけれど、ふと、自分がこんなことを言われたら、と考える。「いまからすべての会話と行動ができなくなります。寝たまま、手や足をばたばたすることはできますが、寝返りはできません。ゆいいつ、大声で泣くということはできます」と。

そりゃあ、泣くだろう。もうせいいっぱい、泣くよ。いのちをかけて。それしかできないのだから。

そんなことを思いめぐらせていたら、ふっと最初の二行が降りてきたので、詩にしてみました。

赤ちゃんのお世話に疲れてしまったり、泣き声に頭がいたくなったりしてしまっている、お母さんやお父さん、身近なすべてのおとなたちへ。すこしでもなにかが、とどきますように。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。