嫉妬と羨望のむこうがわに(あそうかも。さんのエッセイが楽しみだ)

最近は書き出すまでほんとうに、何を書き出すのか自分でもわからない。

いや、ぼんやりと今日はこれについて書こうかなあと思っているときもあるのだが、その日PCを起動していざ書かんとEvernoteをひらくまでに、それよりフレッシュでインパクトのある情報がはいってくると、ネタは簡単にひっくりかえる。

きょうはほんとうは育児関連のことを書こうかと思っていたのだけれど、いざPCを立ち上げて先にnoteを何気なく見ていたら、あそうかも。さんのエッセイにぶつかって、なんだかもう今日はこれについて書きたいという気分になったのでそうすることにした。

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正直わたしは、あそうかも。さんの何も知らない。

きのうtwitterをながめていて、加藤貞顕さんのこのツイートがたまたま目に入り、たまたまリンク先を見たことがきっかけで、あそうかも。さんのことを知った。

それがきのうの話で、今日はもうこんなふうにあそうかも。さんについてのnoteを書いているものだから、あまりにポッと出が過ぎる。長らくのファンの方々にはおそれおおすぎる。読まれないことをねがっている。

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いやでもそんなポッと出でも、批評なんてえらそうなことじゃなく単に「好き」という好みの話をすることくらいは許されるだろう。出会いなんてだれだって遅かったり早かったり個人差があるものだし。そう思って軽い気持ちでこの文章をつらつらつづってしまっている。なんだか申し訳ない。それでもパチパチとキーボードをたたく。

たとえば今朝の、この文章(ほんとうはそれまでも流れるようにつづいてきている文章のなかにあるからこそ、さらにこの一節も気持ちがよくはいってくる感覚があるので、時間のある方はもとのnoteを読むことをおすすめするが、とりあえず引用させていただく)。

“ともかくそういう流れで僕は書き始めることになり、ちなみにこういうエッセイが好きなんですと守屋さんに渡された参考資料は、エッセイの名手と呼ばれる作家たちの、その中でもさらに傑作と言われている作品ばかりで、もうぜんぜんちなみになどではなく、こんなの書けっこないよ、どうか許してくださいと、僕を激しく畏れさせたのだった。”
ブラッド・ピットは気づいた。|M通信」より

もう、この、「もうぜんぜんちなみになどではなく」とか、そういう文のつながりがたまらなく好きだ。嫉妬する。こちらは作家でもなんでもなく、むこうは本も出しているプロなのだから、嫉妬するという表現もおこがましいのだけれど、なんだろう、ひととして。人類として。うらやましい。憧れる。自分には絶対に到達できない境地なのだ。

そして思う。わたしこの感覚を知っているぞ。わたしは以前から穂村弘さんのエッセイも好きで何冊か持っているのだが、穂村さんのエッセイを読んだときの気持ちに似ている。「くはあ!」である。

くはあ。ああどうしてこのひとたちは、こういった日常のつれづれや思い浮かんだことたちを、こんなふうに言葉にすることができるのだ。日常のなかで流れてゆくことたちを、このリズム感で、このことば選びで、このまとまり感で、そしてなによりも、ああこのひとの書いたものだな、とわかる文章で、言葉にしていくことができるのだ。

そういうとき、とてもくやしい。繰り返すけれどプロに悔しがるのもおかしい。けれどもの書きの端くれとして、おなじ人類として、くやしくて、うらやましくて、同時にものすごく、爽快で痛快で、だからわたしはまだまだ書きつづけるんだなあ!という気持ちにもさせられる。

ぜったいにこういうところにはまだ、自分は到達できていない。そういうあきらかな差を見せつけられて、ああ、きょうも自分には自分に書けることを自分のことばで、ぽつらぽつらと落としてゆくしかない、それをつづけていくしかないよなあ、そうだよなあと、最後にはなんだか無性に気持ちのよい納得感をもって、落ち着くのだ。

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そして、これもまた大変におこがましい話だが、あそうさんを見初めてエッセイ集を依頼したという、新刊エッセイ集のご担当・守屋さんのお気持ちもわかる気になってしまう。すでにnoteにつづられた数本の文章を読んだだけでも、あそうさんの書くエッセイ、とても読みたいと思うもの。

あそうかも。さんは広報や宣伝のプロでもあるから、最近のnote投稿やエッセイの一部出しという流れもきっと、広報戦略としての流れのなかにあるものだろう。ああ、まんまとのせられている。でもそうとわかりながら、こりゃのせられてもいい、むしろきもちよくのせちゃってくれ、そんな気分になる。かつてPR関連の仕事もかじっていた自分としては、ああこれがほんとうの広報プロなのだなあとひれふしたくなる。

どうやらエッセイ集の刊行にあわせて、プロアマ問わずインタビュー取材も募集しているらしい。おもしろそうだけれど育児のさなか東京まで行くなんて難度が高いわと思っていたら、文中で「9月に熊本まで車で行こうと思っている」というではないか。なんと。

もしほんとうに車で熊本までいらっしゃるのなら、そしてもし、もし別の用事なんかもあって福岡をまったり経由するのなら。そのタイミングでインタビューをさせていただくことは可能なんだろうか。いや、なんのメディアをしょっているわけでもない個人の自分が、そんなおそれおおすぎる。と思いながら、でも、でも。うじうじ考えている。

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今日も、PCをひらいてnoteを閲覧しなければ書こうとも思わなかったことを、結局こんなに書いてしまった。でも何度も下書きを重ねた文章よりも、こういうときにわーーーっと書いた文章のほうが、何倍もたのしく、正直で、どこかいいものになるような気がするのは、なんでなんだろうなあ。

それにしても、あそうさんのようなプロの書く文章が無料で読めてしまうなんて、noteはおそろしい。いったい時代はどう動いてゆくのかしら。わたしなんぞにゃわからない。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。