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出会えるひとの数にはかぎりがあるから

わたしは千葉の片田舎生まれで、東京のマンモス大学に通い、東京の会社に就職した。そのあと1年半ほどは海外をふらついていたけれど、帰国後はまた東京や神奈川を拠点に生活していた。

つまり学生時代の友人や、仕事上の知り合いは圧倒的に関東がベースである。福岡には3年前に越してきて、まだまだ日が浅い。

だから実は、note酒場へ行くというときにちょっとだけ、思ったのだ。もしかしたら会場で、顔をみてお互いに「え!なんでいるの!?」と、リアルの友人と再会することも、一度くらいはあるんじゃないかと。

でも実際は、あれだけ人が渦巻くnote酒場で、noteを介さない私の友人や知人は皆無だった。

もともと、“知り合い不特定多数に読まれると書きたいことが書けなくなるから”という理由でハンドルネームだし、それはホッとすることでもあった。

ああ、この空間では完全に、脳内をさらけ出した「ぽこねん」でいられるんだな。note上にはわたしの素がすでに垂れ流されているので、いまさらとりつくろう意味すらなくて、なんてすばらしいんだろうと感動した。

* * *

でもあとになってふと、その状況をふりかえったとき、また別の感情がわいてきた。

“ああ、わたし、いったい今までだれと出会ってきたのだろう。生まれてから30年近く関東にいたのに、その時間で、どれだけ本音で語れるひととしゃべってきたんだろう”。

そんな気持ちだった。

新卒で入社した会社で、スーツ姿のわたしが愛想笑いをはりつけて売り込みトークをしている時間。集まった名刺の数とは裏腹に、何にもつながらなかった異業種交流会。はやく帰りたいなあと思いながら、言いだす勇気なんてなかった強制参加の会社の飲み会。はたまた真逆のベクトルで、居心地のよい場所を見つけた後に、仲間うちだけで盛り上がる日々。

「なんにでも価値はあるよ」という世の中の風潮は、きれいごとと言われようとわたしは嫌いじゃない。選んだ道を正解にしたほうが生きるのは楽だ。得られたものはあったし、すべてを無駄だったとは思わない。

でも、愛想笑いを浮かべて本音を隠していたかつての2時間も、無防備に笑い合っていたnote酒場での2時間も、ひとしく2時間なのかと考えると、ただ、ああそうかあ、そうなのかあ、と心がじんじんした。

* * *

ずっと、孤独だと思っていた。

思っていることはたくさんあるのに、いつも口頭ではうまく伝えきれなくて。考えをその場でパッとまとめるのが苦手で、じっくりと向き合わないと答えが出ない。どう思う?と問われるたび、胃がきゅう、となった。

20代前半のころ、スーツ姿のおじさんと話しているとバカにしたように苦笑されながら「何もわかってない小娘だなあ」と思われているのだけは伝わってきた。わたしは何をしているんだろうと空虚な気持ちに包まれていた。

仕事場では誰とも心が通じず、空虚感に包まれ、泣きながらひとり暮らしの部屋に帰り、深夜にtwitterを眺めることが楽しみだった。当時のアカウントは実名だったので、リアルの友人が中心で、それでも脳内を少しでもテキストに落として吐き出す文化はわたしにとってとても大切だった。

でももっと、脳内のあふれそうな気持ちを何かにしたくて、何度かブログを作った。ぽちぽち書いてみるものの、あまり反応がなくて挫折していった。

時を経て、Facebookにのめり込んでいた時期もあったけれど、いまはもうまったくといっていいほど更新していない。わたしはリアルな出来事を発信したいとか、充実してるね、すごいね、ということばがほしいわけじゃなかったのだなと、今になってようやく冷静にわかる。

ずっと、脳内であふれでては消えてゆくことばたちを、どうしたらいいのかわからなかった。できごとそのものだけじゃなくて、そこで感じる無数のことを、ことばにしたいという欲求を、文字にしていきたいという自分のための欲求を、もてあましていた。行き場がなくて、苦しかった。

あの日々も。

あの日々もnoteがあったら、と思うと、泣きたくなる。あの日々、noteがあったなら。noteを介してひととつながれたなら。

わたしはどれだけ救われていただろう。

* * *

noteには、わたしの脳内でくすぶっているものを、わざわざ読んで、反応してくれるひとたちがいる。その事実にいま、ほんとうに救われている。

ずっと探していたのって、こういう場だった。

いや、今年はずっとそう思っていたのだけれど、でもなんだろう、「所詮オンライン上の話だしなあ」という気持ちが、これまでは無意識に、わたしのなかにあったのかもしれない。

この中でいくら脳内を吐き出してもなあ。結局、話せるママ友のひとりもわたしにはいないし。はぁ。きっとそんな気持ちもあった。

でもnote酒場には、ひとがいた。

オンラインだったけど、その向こう側にはほんとうにあたたかい、生身のひとたちがいた。その事実に触れて、とても感動した。前回書いた、そしていまもまだつづいているような「ふわふわ感」が、いまようやく少しだけ言語化できてきた気がする。

noteはリアルだった。

* * *

ひとは生まれて死ぬまでに、何人のひとと会うのだろう。ググってみたらいろいろな説があって、結局よくわからない。

でもたしかなことは、「かぎられている」というところだなと思う。

たとえ日本国内に限ったとしても、全員と同じぐらいの密度で会話するのが無理なことくらいは、わたしにもわかる。

せっかくnoteという、自分の探していたような場に出会えたのだから、来年はここを起点にもっとリアルでも出会いたい。note酒場での出会いを経て、どうやらわたしの中にはそんな欲が生まれてしまった。

出会えるひとの数にはかぎりがあるから、わたしはわたしの大切な場であるnoteを読んでくれているあなたに、出会いたい。わたしが読ませてもらって「はあぁ」とか「うんうん」とか「ほっ♡」とかなっている、いろんなnoterさんにも、ぜひお会いしてみたいし、いろんな話をしてみたい。

昔ながらの異業種交流会であるような、腹のうちを探り合うような会話じゃなくて、もうベースをすっとばしたうえでの本音の会話を。

役に立つとか立たないとかじゃなくて、しょうもない話でもいいから、ただ、めんどうくさい建前の交換とか、そういうところをすっ飛ばして話したいんだ。持っている時間は、みな有限だから。

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