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やりたい仕事だけやろうと決めたお話

(※だらだら長いnoteですが、自分の脳内整理のために置いておきます)

すこし前の話だが、仕事用の名刺をリニューアルするにあたって、このnoteアカウントのURLを初めて記載した。

これはわたしにとってはけっこうな賭けというか、 ひそかな決意表明みたいなものだ。これまでわたしは、ぽこねんアカウントとリアルな自分をつなげることを意識的に避けつづけてきたのだから。

ただこのたび、育休を経て仕事を本格的に再構築するにあたって、「もう無理をするのはやめよう」ということを、決めたのだ。

「無理をする」にはいろいろな意味があるけれど、ここでいう「無理」は、目先の利益にとらわれて自分がやりたいとは思えない仕事をやることと、仕事を詰め込みすぎてしまうこと。

「ああ、本当はこの時間を使って、もっとこういうことをしたいんだけどなあ」とか、「こういうジャンルのことをしたいわけじゃないんだけどなあ」という勝手なモヤモヤを抱えてする仕事を、なくすことだ。

理由は極めてシンプルで、「自分が持つ時間は有限だから」。あとはそれに付随する形で、「そのほうが心身ともに健康でいられる」し、「受けた仕事の質をよりあげられる」と考えたからだ。

* * *

……というようなことをいうと「きれいごとをいいやがって。明日を食いつながなきゃいけないんだよこっちは」と思う方もいるだろう。そのとおりだ。だから一応補足をしておくと、このnoteは「今このタイミングのわたしがそう決めた」というだけの話であって「みなさんもこうしましょう!」という話では断じてないことだけを、先に断っておきたい。

なぜなら、「やりたいことだけやる」という選択は、基本的な欲求が満たされた状態で初めてでてくる、とても贅沢な選択だと思っているからだ。

たとえばわたしも、20代でフリーランスになりたてのころ、独身でひとり暮らしをしていたので、まず生活をしていくことに必死であった。最初の数ヵ月は、平日に取材や会議を含めたライティング仕事、土日祝日は家電量販店で接客販売のアルバイトをして食いつないでいた(扱う商材に興味があった&接客はヒアリングの練習になったので、へとへとだったけど面白くもあった)。

奨学金も返済中の身であるし、口座からお金がなくなる一方で心がすさんでくるあの感じはそれなりに体験している。だから家賃など最低限の生活費はなんとかバイトだけでも補えるように計算をして、休みなく働いていた。

そんな時期もあったので、だれにでも「やりたいことだけやればいい!」と言うつもりはまったくない。当時の自分が聞いたら「そうは言っても食っていかなきゃあなんめえ!」と癪に障るだろう。

でも、だからこそ、わたしにとっては「いま」なのだと思う。

幸いいまは夫がいて、健康に働いていて、小さく平穏な生活をするための稼ぎを生み出してくれている。そして、「せっかくならいまは思い切り」と背中を押してくれている。かつ自分も健康な状態にある。一見当たり前のようだが、そんな贅沢な環境は、今だけの奇跡だと考えている。

夫はいま「思う存分好きにやって」と言ってくれるぶん、「その分、いつか俺になにかあったり、舵切りしようとするタイミングがあればそのときはよろしくね」という。たしかにそうだろう。だからこそ、私はそのときには、「好きなことで食える」ようになっていたい。

まあもちろん、それが間に合わずして急な病気や事故などがあれば、仕事を選ばずどんなアルバイトだってして、食いつなぐ所存である。家族を守るために。そうなれば「やりたいことだけやってこ!」なんて言うつもりはゼロだ。

だから、「いま」の「わたし」がこうしよう、というだけの話。他のだれかにおすすめしようとか、みんなこうしたほうがいいよとかはまったく思っていないので、それだけはしつこくても伝えておきたい。

* * *

前置きが長くなってしまった。

ところで、仕事の名刺にぽこねんアカウントを入れることが、なぜわたしにとって「無理しない」ことを意味するのか。

それは、わたしの場合はこのアカウントで書いていることたちが、どこよりも嘘がなく、無理のない、正直な自分そのものだからだ(『note愛についての補足。』参照)。

つまり、素直な脳内をここで垂れ流してしまっているので、気持ちに無理をしてつくる「建前」のつくりようがない。

逆にいえば、過去には、かなり心に無理をしていた仕事も多くあった。もちろんすべてではない。一方では「こんな仕事をさせてもらえてなんて光栄なんだろう」と思うようなお仕事もたくさんあった。

それでも、無理をしていることは多々あった。そのあたりの正直すぎる葛藤や苦しさは、このnoteに書いている。

「ほんとうに書きたいものって、なんだっけ」。

それを思い出したくて、自分のことばを忘れたくないがためだけに、ひっそりと開設したtwitterアカウント、そしてnoteアカウント。それが、とるにたらないことばを「ぽこぽこ」と紡ぐ、ぽこねんのはじまり。

知人の目を意識してしまうと、どうしても文章がねじまげられてしまう。書きたいことが書けなくなる。それを一番恐れていたから、わたしはリアルの自分とぽこねんアカウントを結びつけることを意識的に避けてきた。

ずいぶんと長い間、リアルの友人でわたしがこんなのやってるよと知っていたのは夫と、大学時代の友人、2人だけだった。

その後妊娠・出産・育児の影響で更新がぱたりととだえた時期もあったけれど、育児中もたまに気が向いたときにぽつりと更新するようなスタイルで、ゆるーく、ながーく、地味に更新をつづけてきた。

今年の6月くらいからはほぼ毎日更新するような感じで書いていて、それなりに数もたまってきた。するとわたしのなかに、ちょっとした変化が起きた。確かに数は限られるのだけれども、心許せるリアルな友人たちにならば、ここで書いているよと知らせることに、抵抗がなくなってきたのだ。

* * *

知らせてもいいかな、と思えるようになってきたのはなぜだろう。

それはたぶん、自分でも見失っていてよくわからなくなっていた「ほんとうに自分の書きたいもの」たちの断片が、ぽつり、ぽつり、と「ぽこねんアカウント」に蓄積され、あー、ぽこねんってこういうひとだよね、という“人格”が確立されてきたように感じられたからだと思う。

ああ、このくらいになれば、とりあえず、簡単には見失わずにすみそうだ。少しずつ、範囲を広げていっても大丈夫かもしれない。そう思うようになり、実際に数人の友人たちには伝えた。

それでも、仕事と結びつけたほうがよいのかは、しばらく迷っていた。

こんなに好き勝手やっているふざけたアカウントを見たら、仕事を依頼する側としてはどう思うだろう。そう考えだすと、入ってくる仕事の可能性を狭めてしまうよなあ、ともんもんとしていた。

でも結局、いろいろ考えた末で思った。

入ってくる仕事の可能性は確かに狭まるかもしれないが、少なくとも、ぽこねんアカウントを見たうえでまで、わたしのことを嫌いにならずにいっしょに仕事をしましょうと言ってくださるひとがいるのなら、それは絶対にすばらしい出会いだよなあと。

なにせわたしはもう、正直すぎる脳内をnoteでさらしまくってしまっているので、そこから建前のつくりようがないのだ。とりつくろう意味すらなく、本音で話せるって、なんて楽なんだろう。

あ、それいいな。数は限られても、わたし、そういうひとたちとだけ、お仕事をしたい。そう思った。だって、もう、無理はつかれるもの。

ただでさえ育児中、「自分がやりたいこと」に使える時間や体力はほんとうに貴重で、もうそりゃびっくりするほどに、有限も有限だ。だから自分がやりたいと思えないことは、やらない。そのことで離れていく関係性なら、お互い、それまでの話だ。

たとえばせっかく何かの機会に出会っても、ぽこねんアカウントを紹介したら「このゆるさはちょっと」と感じて、お断りされるケースも出てくるだろう。それは短期的に見れば損失だが、長期的に見れば幸せである。「ああもっとほんとうは、こういうことに時間使いたいのに」と胃をキリキリさせながらやる仕事がなくなるからだ。その分の時間と労力で、やりたい仕事の営業にでもでかけよう。

一方で、変なやつだけど一緒にやってみるか、という奇特な方もいらっしゃる。そして、そういう方とのお仕事は、こちらも進んで、ぜひ一緒にやりたいです、と思うものが多い。当然、モチベーションは高く、いいものをつくろう!という気持ち満々で仕事にとりくむ。むしろ一緒にそのメディアの価値をあげていきましょうよ!と言いたい気分になる。相手の希少さ、ありがたさも理解しているので、いいものをつくりつづけなくては、と勉強もする。

あれ?それって一番自分が望む幸せだな。お客さんにとっても、そっちのほうが明らかにいいな。

そう思った。

ここへ来てものすごく単純なことを書くけれど、相性って、やっぱり大事。

* * *

ちなみに、じゃあこのアカウントを実名にすればいいじゃないかと思う方もいると思うけれど、そこにはまた別のハードルがある。

たとえば親や親族などに知られたらと考えると、「書きたいように書く」がつづけられなくなってしまうと、現時点の自分では思うのだ。

親に知られたら、心配をかけたくないがために、暗めのコンテンツが書けなくなってしまう自分が容易に想像できる。最近なら「悪意のないことばが人を刺す」のような。明るいコンテンツだけを書き続ける自分は、うそっぱちだ。自分のこころにふたをして、うわっつらで書いていた、過去の自分に戻ってしまう。

きっと、そういうことを乗り越えた先にいるのがほんとうのプロなのだと思う。思っているのだけれど、わたしはまだ、そこへ到達できていない。

ただ、今は無理だけれど、いずれは親に知られてもいまと同じような感覚で書き続けられるくらいに、そのうちなりたい。そのためには地道に発信をつづけて、ぽこねん人格を、多少の衝撃では揺るがないくらいに確立させてゆくしかないんだろうなあ、と思っている。

* * *

さあさあ。

幸いわたしは、最近ようやく本格再始動しだしたというタイミングで、「はじめまして」と会う方が多い。リニューアルにはいまが絶好のチャンスだ。

実際に、実名でこれまでやってきた実績記事と、noteに書き溜めてきたさまざまな記事、両方を提示して「はじめまして」をさせていただいた方もすでにいらっしゃる。そのうえですでに、仕事をさせていただいているところもある(昨日の記事もそのひとつ)。こんな自分の生み出す仕事に期待していただけるのなら、全力で応えたいと思っている。

ちょっと前、夫に雑談としてそんな近況を報告したら、「『できること』と『やりたいこと』の両方を提示できるのは、いいね」と言われた。ほう。そんなふうに考えてはいなかったけれど、確かにそうなのかもしれない。

オーストラリアの編集部では「できること×やりたいこと」をやらせてもらっていて、関東時代は一時期「できること」だけの比重が大きくなったりもして、noteに逃げ込んで「やりたいこと」の記事を地味に蓄積してきた。

ようやく、その両方を提示できる土壌ができてきたようだ。まだまだ、整備作業はこれから、だけど。

* * *

長くなってしまった。まだ読んでくださっている方なんていらっしゃるのだろうか。

最後にもう一度だけ言っておくと、私は「やりたくないことはやるな」と偉そうなことを言うつもりはない。もうなんというか、人様の置かれている状況や考え方はほんとうに、私の想像なんて全然及ばないくらいに千差万別だと思って生きているので、これはあくまで、わたし個人の、今というタイミングの話だと思って書いている。

たとえば大学の後輩に「やっぱりぽこねんさんみたいに会社辞めたほうが好きなことできていいんですかねえ」とか聞かれても「うーん、◯◯ちゃんはどうしたいの?」としか言えない。

だって自分にとっての幸せが、他のだれかにとっても幸せな状態とはかぎらない。わたしもそうなのだが、かつてだれかに「絶対こっちのほうがいいのに、君はもったいないなあ!」と、幸せの定義を押し付けられた経験がある方なら、たぶんこのあたりの感覚を強くお持ちだろう。

自分にとって何がどういう状態が幸せなのか、それはどうやったら作れるのかは、自分で考えてみないとわからないよね。だれかの中に、答えはないものなあ。

以上、えらそうに語っておいて、「ただ決めただけ」の話でした。

でも決めることで、そこから行動が変わっていくと思うんだよなあ。

今は夫に負担をかけるかたちで応援してもらっているけれど、わたしも「やりたい仕事」だけでゆくゆくは経済的にちゃんと自立できる状態を目指して、ひとつひとつの「やりたい仕事」に、真摯に向き合っていきたいと思っている。

(おわり)


↓高校時代、教師に聞いてから、ずうっと胸の中にある話。

「自分にとっての幸せが何か、わかっていないの? それを普段からちゃんと考えておかないと、その幸せを手に入れる前に、人生なんてあっという間に終わってしまうよ。僕はいつも、自分にとっての幸せが何かを考えている」


自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。