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山猫軒にて

 行きつけの美容院の向かいに「山猫軒」というカフェがある。ずっと気になっていたが、小さな窓からは中の様子を窺うことはできず、入るタイミングもなかった。

 先日、美容院でカットをしてもらい、店を出ようと時計を見ると午後一時過ぎだった。お腹もちょうど空いている。思い切ってそのカフェに入ってみることにした。
 ドアの横にはイーゼルがあり、置かれた黒板には「お一人様もお気軽にどうぞ」と書かれている。まさか……と一瞬立ち止まった。

 あれは息子が小学校6年のときの、参観日だった。国語の授業は『注文の多い料理店』をやっているところだった。担任は私と同年代の女性、明るくパワフルなK先生だ。
 「このふたりの紳士の身なりから、どんな人たちだと思う?」と先生が聞く。「都会から来た人」「なんかカッコつけとる」「ケチな感じ」と子どもたちが口々に言う。

 K先生は大きな声で、子どもたちの意見をどんどん受け止めていく。すっかり私も生徒になっていた。山奥の料理店、扉に書かれたメッセージにドキドキしながら中へと入っていく。最後に身体中にクリームを塗るよう指示された紳士たち、結末はご存じのとおりだ。

 まさかそんなことはないだろうと思ったが、山猫軒のドアを開けると、少し年上の女性がふたり、「いらっしゃいませ」とあたたかく迎えてくれた。ランチセットを頼み、窓際の本棚をながめながら待った。想像していたとおり『注文の多い料理店』の絵本もある。店主は宮沢賢治が好きなのだろう。
 運ばれてきたランチは、ちょっとお洒落で、料理上手なお母さんが作ったような味がした。奥でおしゃべりしていたカルチャー教室の帰りらしい女性グループが帰ると、あとは女性二人連れの客と私だけになった。

 店内が静かになってしばらくすると、ドアにぶつかるような勢いで中年男性が入ってきた。「何か食事できる?」と聞いている。「ごめんなさい。ランチは二時で終わりましたので、軽食ならできますが」と、フロア係の女性が説明している。しばらくやりとりのあと「じゃあ、カレーちょうだい」と男が言った。営業マン風の、遠慮のない態度を横目で見ながら、もしかしてこのオジサンが今日の獲物か?と妄想して、ついニヤニヤした。クリームを塗って、塩を振ってと言われないだろうかと期待したが、カレーライスを食べ終えると、また鞄を手にドスンバタンと出て行った。

 コーヒーを飲み終えた私も、そろそろ帰ることにした。カウンターの奥にいた店主らしい女性はもう姿が見えなかった。フロア係の女性が「また来てくださいね」とお釣りを出した。

 美容院の向かいにある「山猫軒」は、私の好きな場所になった。こんど行くことがあったら、店主らしい女性に、宮沢賢治がお好きなんですか?と尋ねてみるつもりだ。

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