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中学英語の呪い2 Maybeは多分、「たぶん」じゃない

海外で開催された工学系の学会で、若い日本の先生A准教授の口頭発表を聴講していた。
この先生の研究成果は、その分野ではかなり先端を走っており、聴衆も多かった。
英語はわかりやすく、論旨も明快だった。

発表が終わり、質疑に移った。
欧米系大学の研究者B氏が挙手した。
実験結果の因果関係を再確認する質問で、
「あなたはXという結果を得たが、それはYが原因だと考えているのか?」
というようなものだ。
A先生は発表の中の考察で、原因がYである可能性をはっきり示唆していたので、この質問は単なる確認であり、確認後に、より本質的な質問に移る準備だった、と思う。
例えば、──原因Yが結果Xを引き起こしたメカニズムは何だと考えているのか──のような。

ところが、A先生は、この質問に対して、
Maybe
と答えた。
質問者Bは、えっ、と戸惑いのリアクションを見せた後、再度、
「Yが原因だと考えているのですね?」
と繰り返した。
A先生も再度、
Maybe
と応じ、質問者Bは、
「‥‥OK, Thank you」
と、納得がいかない表情で着席した。
本質的な質問と議論には、結局、進まずじまいだった


これは、二重の意味で、きわめて日本人的な対応だった。
もし、A先生が英語を母国語とする人だったら、B氏の質問には、
Maybe
ではなく、
Probably
と答えていただろう。
いや、A先生の顔つきからは、
Most probably
あるいは、
Yes, I believe
とさえ言い切っていいほどの《確信》が感じられた。

では、なぜ彼は
Maybe
と答えたのだろう。


ひとつには、「断定」を避ける、日本人特有の言い回しがある。よほど確信がある場合でも、日本語では「おそらく」「たぶん」を頭に付けて話してしまうのだ。

もうひとつは、「中学英語の呪い1」で書いた、「Please=どうぞ」と同じく、問題のルーツは、
《単語&和訳 1対1対応型単語帳問題@中学英語》
に遡られる、と思う。

その単語帳で、僕たちは、
  Maybe = たぶん
と憶える。
だから、大人になっても、たとえA先生のように第一線で活躍する研究者になっても頭の中で、
たぶん(日本語)→Maybe(英訳)
と変換してしまうわけだ。


英語の参考書などに、「たぶん」の英訳として、
「Probablyを使うのは80-90%の確度の時、Maybeは50%ぐらい、Perhapsは30-40%ぐらい」
のように、《確度による使い分け》で説明されていることがある。

けれど、このうち、「Maybe」というのは、かなり軽めの言葉であり、僕の《肌感覚》では、
そうかもしれないし、そうでないかもしれない」的なニュアンスを含んでおり、
根拠はないけど、そうかもね
のように、ある種、《無責任》な印象(よく言えばカジュアル)を与える言葉である。

今の僕が「中学英単語帳」に書くとしたら、「たぶん」ではなく、
  Maybe = かもね
だろう。


おそらく、研究者Bさんは、A先生の研究に感銘を受け、A先生が、
「結果Xの原因がYである」
と判断(発表内容からの印象)した根拠を尋ねようとしたのだが、それを尋ねる以前に、A先生から、
「Xの原因はY──かもね
とやられて、カックン、とこけたのだろう。


うーむ。
「中学英語の呪い」って、長きにわたり、祟るんだなあ。

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