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秋と秋刀魚とジャクソン・ブラウン

噺家といえど覚えられる演目には限りがあるように、人間の記憶力というやつは実に厄介である。歳を重ねると1年前のように覚えていたことが実は5年も6年も前だったというようなことが多々ある。

また逆に、昨日のことをすっかり忘れていたりして、嫌になったるするのである。

今を生きるということは、過去と共にあがきながら生きることであり、未来というものにすがる行為だということではないか、と最近は思うようになった。舞い込む荷物を抱える事で精一杯だった20代30代40代。

たくさんの落とし物に気づかぬまま歩いていたのだろう。もしくは、頭の中の箪笥に仕舞い込んだまま、鍵をかけていたのかもしれない。

そんな落とし物が、ふと気づいたら足元に転がっていたりして少し嬉しくなったりする。憧憬や懐かしさからではなく、そこにある密やかな愛にいまさらながら気づくから嬉しいのである。

いまさら気づいたことに悔いはないのか?との自問自答もあったが、過去の私の行いに対して、その時の感情を幾何かでも覚えていることで、現在の私が、今ここに在るという事が全てだと思っているので悔いはない。自分勝手な解釈だということも承知しているが、生きるということに軸足をおいているのだから、今は悔やんでいる暇なぞなく、日々を重ねて行こうと思うのである。

記憶というやつは、季節や音や匂いや味覚や風景に紐付けられている事が多いが、秋になると毎年のように思い出す記憶がある。今回はそんなお話し。

秋と秋刀魚とジャクソン・ブラウン

その頃の私は、【レッツモラトリアム】とばかりに
吐き出せないぐらいの退屈を吸い込んだまま、
吹き抜ける風にいかにすれば乗り込めるのかと試行錯誤していた。

大学進学で東京に出てきてからすでに5年が経っていた。

エベレストが小さく感じられるぐらいのプライドと自信だけで
無頼派気取りのアンポンタンは入社半年で設計事務所を退職し
これから先の行く末も考えぬまま、呑気に暮らしておりました。

そんな折、2番目の姉から母が入院したと連絡があった。

母はここ数年、半年置きぐらいに入退院を繰り返しており、その度に実家へ帰るのが億劫になっていた私は「またか・・・」とつぶやいた。そんな私の言葉を聞いたにもかかわらず、姉は銀行口座にお金を振り込んでおいたので帰ってくるようにと声を荒げることなく告げ、電話を切った。

帰省する度に金を振り込んでもらう事に申し訳なさのかけらもない当時の私は、手慣れた具合に実家までの各駅停車で帰れる運賃だけを残し、あとは路上にリバースされる運命の酒代へと消えた。

母を見舞いにいくと思いのほか元気で、少し安心した私は、今は母が一人で住む、家主なき実家への帰り道、母からせびった小遣いで、塩焼きで酒のアテにしようと市場で秋刀魚と焼酎を買い、秋の夕日を背負い帰った。

姉二人・末っ子の男は秋刀魚を焼くのが初めてであったが、見よう見まねで塩をふり、焼き網にのせ煙にむせながらも何とか焼き上げた。

焼酎を呑みながら初めて焼いた秋刀魚が思いのほか美味く、上機嫌で晩酌をしていると電話が鳴った。

ほろ酔いで電話に出ると母からであった。

ちゃんとご飯は食べたのか
お金の手持ちはいくらあるのか
もうお風呂には入ったのか
毛布の場所はわかっているのか
寒くなったので暖かくするように
酒を呑み過ぎないように・・・・・

上機嫌の私は、何も心配するな、
明日も見舞いに行くと鷹揚に答え、電話を切った。

風呂に入り少し酒も抜けた私は、持ってきたカセットテープから
ジャクソン・ブラウンの「Late For The Sky」を取り出し
デッキにセットしごろりと横になった。

実家の匂いと母の声、そして遅まきながら
自分の不甲斐なさに気づき感傷的になっていたのだろうか。

「The Late Show」を聴いている時、泣いた。

大声で泣いた。


誰も夢とか、笑い声とかで自分をごまかさない限り
自分の気持ちなんか正直に話すことなんかない
そうでもしなければ現実はあまりにも辛すぎるから
(中略)
悲しみは袋に詰めれば明日にはごみ収集人がやってくる
道端に置いて僕らはただ旅に出よう

翌日、病室の母を見舞い、昨晩の夕餉の話を笑いながら伝えた。当然、泣いたことなどおくびにも出さずに。話すことも特になくなり居心地も定まらぬ私は、帰り間際に母に、何かほしいものはないか、食べたいものはないか、と聞くと、全て見透かしたような笑顔で、秋刀魚が食べたいと、母は言った。

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