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自分は何者かということ

経験を積むと、自分はこういった性格であるとか、こういった行動を取る傾向にあるだとか、何か、自分はこういう者であるといった、自分の中の方向性が決まってくる。

ノートに毎日投稿するネタを考えていると自分はどういう者なのかを見直してみるのだが、そうすると、自分の中にある性格だとか傾向だとかネタにしようとも思う。

自分なりに私の性格や傾向を考えてみた。

・他人に対して同情的、感情移入しやすい。
・真面目ではあるが協調性はない。空気を読めない。
・実利主義ではあるが、突拍子のないことをする。
・一つのことをずっとやり続けるよりは多くのことに興味を持つ。
・これと決めたら頑固である。
・義理や人情、友情が好き。
・優しい、思いやりの気持ちが強い、甘い。

重複したり、相反したり、なんとでも解釈できる。

ちゃぶ台をひっくり返すようだが、性格だとか傾向だとかいったものは、自分の中のほんの一部分であって、自分の方向性を形づくるものではない。と、ふと思った。

書き出しのように、方向性が決まることはごく自然な流れのように思うのだが、その自然な流れに乗ってしまうことは納得できないのである。

なぜか。

自分の中で自分の性格や傾向を規定することはそれ以外の自分の要素を消すか、制限してしまうように思えるからだ。自分は内向的でもあり、社交的でもあり、論理的でもあり、感情的でもある。怠惰な自分もいれば努力家な自分もいて、馬鹿であり、天才でもある。

何者であるかと言われれば「皆で人生を楽しく生きたい者」である。

なにそれ。

と言われそうだが、これは私の生きる究極的な目的であって、この目的のための手段として自分の性格や傾向は日々変わっていくものだと思ったのだった。

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