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第5部:VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ(4)

ファンタスティックな空間としてのVR(1):「Emma VR: Painting Life」
 
  しかし、そうは言っても、多くのVRワールドは人間のために、人間が利用するためにデザインされているのが現実である。よってそれは必然的に、人間の存在を前提としており、その意味で人間のために、人間に合うように設計されている。しかし、中にはそれとは反対に人間に対してある種の戸惑いや混乱を与えることを目的に設計されているVRワールドも少なくはない。第1部で述べたように、「戸惑い」の感覚とは「ファンタスティック」の感覚である。そしてその「ファンタスティック」の感覚は、まさに「認識に還元させられてしまわれない」点にある。あるいは認識として心(=脳?)が計算処理するのに(すなわち認識が成立するのに)時間がかかると言ういい方もできるだろう。その一例として、やはり第4部で真っ先に取り上げた「Emma VR: Painting Life」は特異な作品である。

  入るとそこは美術館的な空間、すなわち未だ現実的な空間である。確かにそこに飾られているオブジェは異様ではある。しかし、それだけならそれもその手の美術作品として受け入れられるだろう。デュシャンが便器をギャラリーにおいて世間をざわつかせたように、美術を置く場に置かれればそれは既に美術品だからである。
 そしてその先を抜けていくと広がる巨大な空間。ここで人は目がくらむような戸惑いを覚える。恐らく、この空間が何なのか、その全体像を把握するには時間がかかるだろう。もちろんヒントはある。先に見たオブジェと同じようなものがそこにはあるからだ。そうして得た手掛かりから周りを見渡すと、なるほど、壁に賭けられているのは絵であり、絵を置くためのイーゼルがあり、そしてここはアトリエなのだと気づく。なお、ここで注目し強調しておきたいのは、この場合は人間存在(第4部で述べたようにSTYLY上では目だけの存在となっているが)がそこにあるモノや空間を規定しているのではなく、モノによって、人間や空間のほうが規定される、という事実である。モノによって空間が規定されるというのは理解できるとしても、人間の方が規定されるとはどういうことか。それは、この場合は自らの肉体のサイズ感が調整されるということである。恐らく、最初にこの空間に入った段階では、巨大なものが巨大な空間に存在していると誰もが思うであろう。しかし、ここがアトリエであると理解した瞬間(認識した瞬間)、今度は多くの人が、自分の体が小さくなったと思うであろう。まさにモノが先、ヒトが後の典型例であり、モノが先、認識(意識)が後という例の典型例である。そしてその際に、その認識へのプロセスの過程で人が感じるのは驚きであり、混乱であり、戸惑いである。つまりは「ファンタスティック」の感覚である。圧倒的なモノの存在感、認識するのに(意味づけるのに)時間のかかる奇妙なモノにより、自分と空間がゆがめられる感覚、これにより人は自分の存在(=実存)はモノというものの存在(=実在)により、規定されていること、世界は意味づけられているのではなく、人間の方が意味づけられることがあることを知るのである。それこそが筆者の言うVRの魅力であり、VRの価値である。しかし、一度その空間が把握されてしまえば(意味づけられてしまえば)その「ファンタスティック」な感覚も薄れるであろう。しかし、ここではまだ「自分の大きさ」という課題が残されているし、それは「なぜ、そうなったのか」というもう一つの意味付けられるべき課題が残されている。そしてそれは同時に不安を生む。経験したことがないことに対し、人は不安を感じるからである。人間存在を時間(=経験)との関係から考察したのはハイデガーであるが、戸谷(2022)によればハイデガーの存在論のキーワードは「不安」である。戸谷(2022)ハイデガーの言葉を引用した後で次のように述べる

ハイデガーが言うように、自分が「世界的存在」であるといこと―つまり、自分がこの世に生きていること自体が不安の源泉であるとしたら、不安の源泉である自分自身と向き合うことは、不安と対峙することになります。そうした不安から目を逸らすため、人間は自ら世人に身を委ねます。他人が与えてくれる、「みんなはこうしているよ」という規範を、唯一の正解だと思い込もうとします。そうすることで不安を忘れようとしているのです。
(戸谷,2022,p.60)

  ここで言う「「みんなはこうしているよ」という規範」こそがまさに「認識=意味づけ」であり、ポストモダン思想が攻撃していた「虚構」である。不安に戻るということは、言い換えれば「戸惑う」ということは、圧倒的な「モノ」の世界に身を置き、自分自身の存在を一度こちら側の世界(意識の世界、認識の世界、虚構の世界)からあちら側の世界(モノの世界)へと身を置き直す、ということである。そしてVRにおいては、まさに現実において、世界において(ClusterCEO加藤氏が「「バーチャル」という言葉は「実質的」「本質的」と訳されるべきだ」と述べていたことを思い起こしてほしい)体験できるのである。


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