貴方の言葉には、どうしようもなく尊い価値がある
「noteにいるのが苦しい」
そういう言葉を、ちらほらTwitterで目にするようになった。正直なところ、私自身も少し疲れ気味かな、という感じがする。
何に疲れてしまったのだろう――私の場合は、ただ単に考え無しの飽き性だから、きっとそういう性癖が出たに違いない。
けれど、他の人はもっと深刻で、辛そうに見えた。
だから、ここから書く言葉は自分への叱咤であり、誰かがちらりとでも見てくれればいいと思う。
子供の間では、比較的簡単に「死ね」という言葉がはやる。多分そういう背景があって、私も両親に向かって気軽に同じ言葉を言ってしまった。
「口から出てきた言葉は、二度と消えない」
そう、叱られた。
以来、私は人に向かってその言葉は使わなくなった。どんなに自分が理不尽な目に遭ったとしても。他の誰かがそう言ったとしても。
言葉で、幾たび身近な人を傷つけてきただろう。幾たび、言葉によって誰かから感謝されただろう。
言葉には、力が宿る。
当たり前のことだ。基本的なことだ。そして、なんとも私たちは自分たちの身に余るものを操っていることか。
SNSは、だから怖かった。
言葉があたふたしている。「言葉そのもの」が、怖いもの知らずの刃物のように縦横無尽に振り回されている。
誰ももう、言葉の重みを感じなくなりつつある。私自身を含めて。
・ ・ ・
写真家だった父は言う。
「昔のカメラは、写真一枚を現像するため、大層なお金が必要だった。だから、写真はたった一枚を、たった一瞬を、狙って撮る」
だから、父はデジカメやスマホを、少しだけ苦々しく思っているらしい。
連写で撮って、その中の一枚を気軽に家で印刷する。とても簡単で楽で、「一枚」に重みのない現代。
「これでは良い写真は撮れない」と、ぼやいている。
ふと、思った。
それは言葉も同じではないだろうか。
かつて、紙は高価で、ペンも高価で、文字さえも高い価値があった。
だからか、文豪と呼ばれる人たちの言葉はあまりにも美しく、深遠に満ち、他者の人生を左右させる重みをもつ。
しかし、今はどうだろう。
Twitterで呟く。PCやスマホで言葉を打つ。紙だって決して高価ではなく、文字は当たり前のように私達の手から紡がれる。
少なくとも、私は忘れてしまっていた。
文字が、言葉が、本当はとてつもなく重いもので、ずっと昔から人々が養ってきた英知の結晶であるのだということを。
私は今、noteで言葉を書いている。
作品を書くこともある。それが評価されることもあれば、まったく見向きもされず、情報の海の奥底に沈んでゆくこともある。
結構、苦しんだ。「どう書けば一人でも多くの人に読んでもらえるのか」を探して、疲れ果ててしまったことだって何度あったことだろう。実際、私は「結果」をほとんど出せてはいない。
だから、これからいう言葉を信用しない人は好きにしてほしい。「実績を持たないやつが何を言う」というのなら、どうぞ言ってくれて構わない。
結局のところ、「そんなの別にどうだっていい」んだということに、気づいてほしい。
人に評価されること、人に意見をもらうこと、結果を出すこと、文章で生きていきたいと思うこと、もちろん大切かもしれない。けれど、それって二の次じゃないか。
結局は、「自分が読んでて納得できる文章」が書ければいい。
これを目指す以上、私は勝手に書き続けるだろう。積み重なった文章の中から、誰かが「ふぅん」と評価してくれるかもしれない。してくれないかもしれない。
そうして書かれたものが他の人に評価してもらったり、批判してもらえるのなら御の字だ。
自分の言葉が、どれぐらい弱い自分に突き刺さる?
自分の言葉が、どれぐらい弱い自分を支えてくれる?
自分が本当に読んでほしい人は、一体誰??
恥ずかしながら、私は自分の作品を一切読み返さない。
それは、「かつての私が書いた最高級の話」であるはずだからだ。次はそれを超える文章が、当然書けなければいけない。
「かつての自分の文章を超えていること」
私の理念は、それしかない。それ以外に興味はない。けれど、それは極端な例だ。
でも、だからこそ、知っていることがある。
「貴方の言葉には、どうしようもなく価値がある」
たとえそれが誰かを批判するものであろうと、褒めるものであろうと、ただの日常の愚痴であろうと、辛い心から思わず零れた涙のようなものであろうと。
その言葉は、絶対に誰かに読まれている。
相手の心に響こうと、そうでなかろうと。
一度、出してしまった言葉は二度と戻らない。紡がれた言葉には責任がある。
「誰かに知られる」という責任があって、創作者本人の手を離れていく。
だからこそ、noteは自由な場であってほしい。
様々な思いで言葉を発する人たちがいて、それを受け止めてくれる場。批判もあるかもしれない。けど、同じぐらい誰かの心を救うことだってある。
その救われる誰かは、文章を書いた本人自身。
書かれた文章は、それで十分責務を果たしていると、それだけの素晴らしい価値があるのだと労ってやってほしい。
コンテスト、私設賞、書籍化……。
そういうもので結果を出そうと躍起にならず、自分の中で「まぁ、どうでもいっか」と肩の力を抜いて気軽に見てあげてほしい。
もちろん、そういう物事を進めるために頑張っている人たちに深く感謝しながら。
noteで出会った心優しい人たちが、少しでも心の赴くまま表現してくれればと、願っています。
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