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忘れはしない1990年代 Memories of Honolulu Hawaii 旅行屋の嘆き
はじめにね
写真が無くて申し訳なく思います
最初から無かった理由ではないのです
ただ、長い長い 人生の中で色々会って
紙焼きのアルバムは手元になくて
思い出だけが残りました。
写真があれば、どんなにいい思い出になっていたか
思ううと切ないけれど
無いものを、どうこう言っても始まらず 文章で残すしかないか
そして、今書いているのは、知っている 人は 少し 懐かしい そんな 懐かしさのmemo
9月最後の平日、暑い秋の午後 3年間の仕事が終わった・・・・
昨日 総ての業務が終了し、私の3年間が終わりました。
夕刻の虎ノ門、風は秋と晩夏のそれが入混ざり、暑すぎた夏を象徴しています。この3年、仕事と人間に対して、本気で向き合った日々。必死で取り組めば、そこには摩擦が生まれます。人間同士の熱量の違い、感覚の違い、世代間の違い、立場の違い、お互いが、それを乗り越えて、絆の出来る相手もいれば、乗り越ること無く決別してしまう相手だっています。時には、組織から出
HongKong 編(活字にしたら嫌な男)
まづはこんなことからカバー写真は横浜の美味しいお店のワンタン、本文とは無関係です。
これは、自分自身のことを書いています。そう、先日書いた記事みたいに・・・ その記事とはこれらです!
これもそうなんですが、1980年代~1990年代の僕は、とても良い日々を過ごしていたわけです。1983年入学、学生時代、通学は車、免許取得と同時に父親の車が自由に使えたから、e-12 520を乗り回していた。10
1980年代 旅行屋の着回し術
私が20代の頃の話です。当時私は旅行屋で営業職をしておりました。これを、なぜ今書くかと言えば、そう、個人的には懐かしくて書いています。同時に、何かヒントがあるのではないかと、書き始めました。
例えば、アメリカにお客様をご案内して、当時の流通産業視察を行うとします。お連れするのは、メーカーの方々や、デベロッパーの皆様、リテイラーの方々などです。当時、わざわざ米国に渡り勉強したものと言えば、まあ、今
旅行屋 真剣に大したこと無いことをする仕事
早速、相乗りすることにしましょたよ。
それに伴い内容を少しだけ読み易いものに変えますね・・・ #この仕事を選んだわけ #就活体験記
多分 誰も興味のない話を、今回は描いてみることにします。
私、平成元年に、 #旅行屋 になりました。
当時は、 #バブル と後に呼ばれる、あの一瞬の輝きの終わり頃でした。
遡ること3年、私は学校を卒業しました。
翌年から就職戦線は、売り手市場に一転しますが、この年はな
僕ら、バブルの旅行屋だった! もしも、旅行屋を目指すのならば、自分自身に色が付く前にいちど旅に出るべきです「旅は自分を探すための手段なんです」
1965年の3月2日 に生まれた僕は、57歳になった。
そう、今日が僕の誕生日
以前にも書いた記事を、別角度から書いてみました。
57年の人生
まずは、普通に学校を出て、社会に出た。
最初の3年は自動車関係の仕事をしていたのだけれど、3年目で転職し、旅行会社というところに入った。
社会人一年目、自動車関連の仕事をしていた頃のこと
この年で覚えてるのは
東京は晴海 この場所で開催される最後
Anne of Green Gablesの島へ 12歳の子供と、花子とアンと 子供に幸せな人生をプレゼントできるとしたら
この話は、単純に書きます。学びは人の人生を確実に開くということと、そのきっかけになるのは、外からの助けである事が大きいという事です。勿論一から自分だけの力で、という人もいるかもしれませんが、それも起点転機で助けてくれる人が居たのではないでしょうか?
私はここに、不思議な実体験を通じて、そのことを書きます。
子供が学びで人生を開くきっかけを、与えることは子供に、物や富を与えるよりも遥かに尊いと言
カナダ プリンスエドワード島州が日本でメジャーなディスティネーションに今一歩及ばない理由の考察
この物語は、途中まで書いてのですが・・・
何処まで書いて良いのやら 少し悩んでおるのですよ!
早いもので、今から30年前には、日本の旅行会社は、この島を売り込もうと必死にプロモーションをしていたんですよ。そのPRにおいて、1丁目1番地のこの場所の観光地としての魅力をどう、当時の日本人に伝えて、この島に行っていただこうとしたか? 当時の人々が考えられたのは、それはもう、まさにシュウマイ弁当だっ