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「日常生活」の大切さ

極力、日常の行いが出来るように、主人の動きを考えて用意した持ちもの。「動けない」ことを考えて代用品にしてみたり。

病院の完全看護だし、物自体も大してあるわけじゃない。だけど主人が普段当たり前にやっている動作に入ってみた。

1人でいるのが好きな人だし、あれこれ訊かれるのもあまり好きな方でないから、敢えてその動作を思い返さないと「あー、これか」が出てこなかった。

土曜日は主人の所持品、荷物を全て渡されて、帰宅してから普段は見ないリュックの中などの洗い物等を片付け。主人にとってスマホと携帯はなくてはならないだろうとフル充電の上、充電器とともに用意した。

「背中が痛くなって長時間寝ていられない」と昔言っていた。今回も現段階は寝たきり状態なので、寝返りが打てずに痛い…と言っていた。

「こっちの脚が痛くて動かせないからさ…」
『分かるよ…』

大けがもした事ないのにどう分かるかって。

”寝違え”というのか、私は極たまに立膝で寝ている脚が外側に倒れて開き、股関節が少しズレるような体験を何度かしているから。もちろん現在では立膝をしたまま寝ないようにしている。

”イテェ~”

痛くて動かせない、重さを与えられずに手で押さえたり支えたりして少し動かして戻る(す)。ズレただけで痛い、動けなくなるのは知っているから。折れていればもっと痛いことは想像がつくし、”動けない”という事もよく分かっている―――。

本当によく出来ている。
やっぱり”不思議”という言葉がよく似合う。

私は今月に入って、腰(仙腸関節)をおかしくした事は書いてきたけども、そこからの動けなさ、それに始まるあちこちの痛みや不自由さを体験したばかりで、安静のために寝ていること自体がまた動きにくい状態を作ってしまう事も知ったばかりだった。(現在は動きに関わる痛みは殆どなし)


部位こそ違うけども、場所も近く、立てない動かせないなど、”同じ”事が起きている状態。そしてそれでも痛みの解消へ向けて動きをとりながら、全体は動かしていくという動作をとって行かないと、本当に今度は、元の痛みでなく動かない事によっての痛みが進んでしまう…、これが主人のケースで言えば手術からリハビリという流れを辿っていくと重ねて観ていた。

イテェのよね、動かない(動かせない)のよね。だから今度は「ん―――っ!」みたいな気も起きたりするかもしれないし。閉じる方向でなければそれで良いのだと思う。

無理無茶はせず、その中で動かしていかないと可動域も本当に決まってしまう。だからそこからが少し踏ん張りどころだよね。


日曜日、開口一番「申し訳ない」みたいな事を主人は言ったと思う。またそんな事を言うのかと思って「そんな事ないよ」的に返したと思う。

面会時間の終了間際、「何も心配することないから。今はとにかく、全てを、自分に向けて注いでしっかり休んで」と言った。

「オレもそう思った…、”そういう事なんだろうな”って」

・・・

人生の途中で色んな清算があるんだと思う。身辺、環境だけでなく、この自分自身にも十分に起きること。大なり小なりだろうけど、人それぞれにそんな事がある。

主人の”申し訳ない”とか、”迷惑かけて”みたいな思いは、主人の本心と思うのだけど、きっとそうであるから私から引き出される想いもある。

”困った時にはお互い様だよ”

前の義母が言っていた、私の大好きな言葉。私はこの言葉に心から救われたといまでも思っているから好きな言葉として記憶している。

昨日の朝は主人のお義母さんに現状と今後の流れを伝えておいた。

「行っても何もできないからね…、その後からの方が大変だ…よろしくお願いします」

こちらは肝っ玉母さん。どこかにやっぱり安心を感じる。母という存在って大きいなって思う。

因みに私は、家の中のことはやる事は減って、その分が外に出ていると思うと、今は大きな負担まではなく。それよりも心の持ち方を気をつけないと、と思っている。


救急の待合に、外国人の方が数名いて、~3人ほど付き添いだったみたいなんだけど。

何しゃべっているか分からない言葉の合間に入る、声のない笑い声と揺れる身体、時折見える女性の横顔に笑えた。

”こんな事に笑える”

良かったと思った。その事に良かったと思う静かな緊張状態が自分にあると感じた。こういう時だからそんな笑いが本当に楽しそうで、大切だと思って見ていた。

・・・ ・・・ ・・・

アメノミナカヌシさんに言っといてあげるね
”あんまりハードなストーリーにしないでね”って(笑)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!