どの区間での事なのか。
私はしばしば、「区間」というような表現を使うのだけど。
その内容の一つに、例えば何かを行うのに、(一応)それが正しいというその事は、あくまでもその状況・時というその”区間”においてそうである、という事。
”世の中に正解などない”というのは、この事のズレがあるからという風にも見ている。「それが良いだろう、優先となるだろう…今この時点では」というものが、一応の”正解”ということになる。
今日はそれに絡んだ話を綴っていきます。
昨日のnoteを書き始める時に、その手のメモからにしようか迷ったのだけど、何となく気が乗らなかったので違うものにした。
今日のこの”区間”と言う話は、書いている内容の具体的なことのみならず、そういう事として物事をみると、かなり「そうなる」と言えるものと思います。
この日のnote(「痛くってもやって…」)では、言葉にされていない、でも前提・必然となっている状況があって、それは表現されていない。
現在入院中の病院は「回復期」としてリハビリを行っている。救急で入った所で転院までに行ったリハビリは”急性期”として対応、同じリハビリでも目的が違う。
目的は違うという事は、行う内容も違うもので、主人は実際に、「向こうの病院では、”痛いのはやらないでいい”という様なことを言われてた」と言っていた。
これだけでも本人は当然、「?」だろうし、痛みがあれば通常はムリムチャしないという考え方があって良いわけで。それに従い”その範囲”で動いていくことをしていく。
現在は回復期リハビリの段階。以前の「初めの段階」を終え、次の段階での訓練をするのが主の目的であって、これがソーシャルワーカーが言う「今までとは全然違うと思うので…」と言った部分。目的が違えば行うことが変わって当然、と以前書いた所。
普段の何気ない日常生活(動作)を送る、その状態を”ゼロ”として、そこよりも”マイナス”になった状態をまずはゼロの段階まで持って行くというイメージが急性期。そしてその段階で終わりではなく、社会復帰など次へのステージに進めて行く”プラス”の動きを増やしていくのが回復期のイメージ。
きちんとその目的に合わせた動きをサポートしていく仕組みになっているため、同じリハビリという言葉でも内容がまったく違うことになる。決して以前の病院が間違っている訳でも、この病院がキツイわけでもない。必ず段階、”その区間”に合わせて身体を動かしていくことになる。
これは主人の骨折による入院中のリハビリの話だけども、以下メモは少し前のもの。その時何を思ってメモしたかは確かめずに移していく。
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必ず「その域」という事が前提。必須となっていると思うけども、だから言葉(表現すること)は難しいわけで。
いやいや?表現自体が難しいわけじゃなく、人が何かを出力する時というのは、大体”外のこと”もセットで考えているものだから、難しいとなるのだけど。
私がこの事をメモしようと思ったのは、「迷い」のことがふと湧いた事による。人が迷うという事は、どちらかと言えば宜しくないという言い方が多いように思うから。
私は以前から「大いに迷え」という風に思っていて、最近そういう事を口にすることもないのだけど、今もそう感じている。ただこの時私は、”迷うこと”によって得られるものが大きいから肯定しているわけで、まったく状況的によろしくない、というそういう”域”のものもあるよな…と思ったもので。
で、そうあって良い場所(面)と、悪い場所とがあるということが前提の上で、迷うという事を書きたいのだけど。
何かに対して自分の答えが定まらないという状態を、人は嫌うし、あまり心地も良くなくて、決めてしまう方が落ち着くということがある。人は宙ぶらりんが苦手で、はっきりしている方が好きな事が多い。早期に決まるという事は、それだけ考える時間が省かれているということで、だからアレコレ迷いの中にいる時には、自らその事を考えるでしょう?という意味。
何かに傾けて、それを拾って”決まる”。重さ傾きがつかない状態は慣れないとかなり気持ちが悪いし、どうしてもそこに引っ張られる―――”氣”になっているから。
そして”考える”という事ができるならまだしも、考えても強さが出ない、傾きがつかないというのが更に不快、「分からなくなる」というやつ。分からない、という状態なんて人にとってサイアク(笑)
でもこの時に、例えば、”自分ではどうにもできない”などの自分以外の”他者”が視野に入ってくる。それは人かもしれないけども、自分の周りにあるのは人だけじゃない。苦しい、キツイ、と考える時、必ず”自分の範囲”に収まっているもの。
この自分という存在は、普通に考えたらとても限定的な存在。考えはその範囲によって行われるもので、外が見えていない状態。
「自分」の目一杯まで行ったら、手放す、任せる、というのは、何か外に特別な対象を作らなくても(作っても可)良く、そのキワを解放/開放できれば良い話。
何かがその場で決まる、決められるという事も、その場面によって良・悪が違うこと。結局、何かコトを行う決めるという時には、必ずその背後・周辺がどこかで意識され、それに合うようにしている。
そこがズレていると完全に「やっている事が違う」という、明らかな間違いとなる。
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一連で物事を観る時、それは合っている・合っていないがある。コトの行いの順序、段階というものには、それに適した事があるわけで、出来ることをするというよりも、目的に沿った事を行うことになる。
大きな言い方をすればタイミングという事にまでなるけども、目的という所から降ろしてくれば(考えれば)、自ずと行いも絞られてくる。
”その場”よりも優れてできるとしても、その区間ではその事の積み上げが重要なことでもあるし、”元”から積み上げていく盤石さは馬鹿にできない確かな支えとなるものだと思う。