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日本人女性がベトナムに住んで、なぜ「生きやすい」のかを俯瞰して考えてみた

きっかけはこの記事だった。社会学者の上野千鶴子さんとマンガ家の田房永子さんの共著出版記念イベント。テーマは母娘問題やセクハラ、結婚、恋愛、子育て等。

”SNSで発散できるし、Twitterの裏アカで「#旦那死ね」というハッシュタグが流行っているとワイドショーでやってました。””

最初から、文字を疑ったというか、何のためのTwitterなのか、何のための結婚なのか、そしてそれを「流行り」と「ワイドショー」という言葉は、ベトナムでは久しぶりに聞いた言葉だということを同時に思った。

そうだ、ワイドショーやテレビ。ベトナムでは見てなかった。というかそういう環境じゃなかった。代わりに、外に出ればすぐに路面店のお店の人々とか、ホストファミリーとか、道行く人々との会話があって、そっちの時間が思いっきり増えたんだった。(まぁ、そもそもベトナム語に必死なのもあるけれど・・・)

”人間関係って、もともと面倒くさいもの。時間がもったいないような相手となんで付き合うの?”

これに対しても、ふと思ったことがあって。日本にいたら、「ほんま、よくわからん。」って、めっちゃ共感していた内容なのかもしれないけれど、こっちに来てベトナム人の家庭内の人間関係見ていて思うのは、「面倒くさい」ようにさせるもの(大体は家事育児)を思いっきり他人に任せるということ。なんだか、最初からストレスになるものだとわかっているものを、夫婦のどちらかの役割っていう2択にするんじゃなくて、完全に他人に任せるっていう新たな選択肢を増やして、できる限りストレスの根源を取り除いている気がする。「時間がもったいないような相手となんで付き合うか?」それは、お互いが自立していない場合、往々にしてあり得る結果論。

この前半後半の記事を読んで、まず思ったのは「そういえば、ベトナムでこの手のテーマのトークセッションとかイベントを知らない。てか、やってんのか?」ということ。まぁ、あっても参加しないし、ベトナムでは需要が無い気がする。参加して、共感して、団結して?の先の目的がわからない。(って、これは今、ベトナムに住んでいるから言えることだと思う。私がまだ日本にいたら、きっと蔦屋書店とかで開催されているトークセッションに参加して、「社会問題」の知識が増えることに対して良い気分になっていたんだと思う。)

あと、思ったのは団魂世代、団魂ジュニア世代っていう定義も、ベトナムにはあんのか?そうやって世代分けて、何かを論じようとしているんだろうか?

”「手に職を持て」「夫に頼らないように、経済的に自立しろ」と、自分たちの世代ができなかったことを要求しつつ、「結婚して子どもを産め」とも言ってくる。”

確かに、「手に職を持て」というのは人から直接言われたことがあるのかもしれない。でも、ふと考えてみたら、誰かから直接言われたというより、マスメディア、雑誌、テレビ、本のタイトル、CM、商品の宣伝、とか、そういう普段の生活の中での「言葉」から、私たちは日々「女性とは」「男性とは」を意識せざるを得ない状況だったのかもしれない。

”娘の生き方で、自分の生き方を判定する””

これは、まさに女性や個人の問題というよりも「日本人の自尊心の欠如ゆえ」だと思っている。忖度社会の罪。過保護になりがちだし、その「自信を無くした」母親は、娘には何とか「幸せになってほしい!」と言いながら、行動を抑圧している部分はある。

主婦、という言葉も、ベトナム語にもあるけれど、どうもしっくり来ない。なぜなら、家政婦さんを雇って家の中に入れる(ほぼ同棲状態)習慣があり、ホストマザーは子育てや料理は一緒に行っている。食器洗いや掃除はほとんど家政婦さんの役割。その間、ホストマザーとホストファーザーは居間でくつろいでいたり、仕事したり、朝は一緒に散歩に出かけている。

ベトナム人は年代関係なく、とにかく自分に自信がある。自分に「余白」があるから、他人も心から褒める。言いたいことを言う。そんな母親に育てられた子供はまた、自信を持ちながら育つ。でもこれも、いくら母親が強く自尊心が高くても、父親からの愛情と褒めが無いと育たない。男性も、気持ちが良いほど褒め上手。

”負け犬の遠吠え「男に選ばれない私は価値がない」””

この言葉は、本当に呪縛だと思う。で、残念ながら、現代の日本社会でも、「モテる女の特徴」とか「愛されキャラ」とか、言葉の表現から、すごく呪縛を感じさせられる環境は多くあると思う。

記事の中では、「我慢しなくなった女性が増えた」「自己利益最優先の女性が増えた」等、風潮が変わってきた、とあったけれど、ただ、それが「男性と女性が敵対心を向く」方向にならなければ良いなとは思う。私は、ベトナムで過ごしていて、今回の記事を読んで思ったのは、「あれ、そもそも経済発展した消費社会の『世代わけ』『男女区別』『定義づけ』『言葉の伝え方』の問題もあるんじゃないか?」ということ。

雑誌、化粧品、技術、教育、レディースデー、電車のつり広告、日本社会で、嫌というほど目にする日々の『言葉』は、いつの間にか、私たちを疲弊させる。で、これは女性だけではなく、社会全体を。

まだまだ、私自身この国の「男女の人間関係」や歴史、文化背景、社会など、学んでいく必要があると思っている、というかとにかく好奇心と興味しかない。自分の「生きやすい」感覚が、まだうまく論理的根拠を持って文章化できるわけでもないし、簡単に「だからベトナムに住んだらいいよ」なんて言えない。そして、もしかしたらこれは永遠に考え続けるテーマなのかもしれないけれど、この感覚を大事に、仕事をしながら学んでいきたいと思う。

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