見出し画像

多様性とは、人を愛することができること

中学生や高校生の頃、くだらないと思っていた恋バナと女子会に、くだらなかったのは自分だったのかもしれないと考え直した20代。そして、「私は、恋はしないんだ」と語ったアセクシュアルの友人との出会い。アセクシュアルは、他者に対して性的欲求を含む※恋愛感情を抱かないセクシュアリティのことで、無性愛者とも呼ばれる。彼女は、「恋はしないけれど、家族や友人は愛している」と言っていた。

(※ただ、私はこの日本語の「恋愛」という、恋と愛を並列することに違和感があるが、この話は、多くの方々が語っているので割愛する)

「多様性」という言葉ほど、最近よく目にする言葉は無いけれど、でも、本当の多様性の理解って、例えば、障がい者の方々や外国人に対する理解を越えて、もっと奥深く、それぞれの心の中にある感情との向き合い方、その理解なのかもしれない。

グローバル企業に務めていた時には、ゲイやレズビアンの同僚が多くいて、海外出張や他国のオフィス訪問、旅行の際は、LGBTカフェやレインボーパレードなども日常で目にしていた。そして、そういう人々は至って、周りにとても優しかった。すぐ友達になれた。なんだろう、愛を持っている人々と言えばいいのだろうか。信じられる大人たちだった。でも、その企業の外に出ると、やっぱり日本社会だった。性的マイノリティを誰にも伝えられず、今も苦しんでいる人々も、きっと多いのだろう。

「恋」や「幸せ」の定義にも、もっと多様性が欲しい。

「恋がしたい!」という人々に対する、違和感なのか、煩わしさなのか、回答ができなければ共感も全くできない、言葉にできない、自分の感情。「結婚したら幸せになれるよ」という押し付けがましい無責任な言葉。「仕事に専念したいから恋愛は諦める」という2択の考えをする人々。

その人々を、否定するつもりは全くないし、すっごく悩んで、考えているんだろうなと思うし、私の「幸せ」を思って、話してくれているのかもしれないけれど。あと、何かを得るためには、本当に何かを捨てないといけないのだろうか。我慢しなければならないのだろうか。この「幸せ」の定義こそ、もっと多様性を尊重してほしいし、自分も尊重できる人でありたい。

「恋はしたくないけれど、結婚はしたい」

そういう「矛盾」は、尊重されるのだろうか。そもそも、理解されるのだろうか。「恋愛結婚ができる時代に、贅沢な悩みだ」とでも言われるのだろうか。

恋は、明らかに一方通行で、「恋がしたい」という人々の中に、「恋は楽しい」からという人々がいるけれど、いつまでその「楽しい」で終わるんだろうか、と、ふと、これも冷めた性格の自分は思う。だから、恋が無くても、結婚はできるよね、と、ひとりでもできる恋よりも、ハードルが一気に高くなる結婚を先に見ると、結局そこへは辿り着かないのだろうか。

そもそも、「人を信じること」が自分の中で大きな課題というか人生のテーマであった自分にとって、ようやく心が軽くなって、「人を信じる」ミッションをクリアした20代で、いきなり恋愛になると、なんだか次元が違うというか、モヤッとしたものがあって。勢いで付き合うし、同棲したこともあったけれど、自分の中で、何かが晴れない。

で、気づいた。というか、きっと前から気づいていたんだけれど、

「私は、家族や友人ですら、愛していなかった」

これは、相手の問題ではない。「恋愛関係が苦手」の話でもない。「家族は無条件の愛」だとか、「会社は家族」だとか、世の中で「家族」という言葉を聞く度に、心がざわつく。

「恋はしないけれど、家族や友人は愛している」といった友人が素敵だなと思った。自分自身が性的マイノリティーだということを理解しながら、カミングアウトしながら、それでも人を愛しているのだと言える。その子はきっと「心の居場所」を教えてくれる多様性の文化に、助けられたんだと思う。

そして、私にとって「家族」というものに対して、別の視点から見ることを教えてくれたのはベトナムだった。自分の気持ちに超素直で、超ストレートな物言いをするこの国の人々は、人を愛することを教えてくれた。決して、「心地よい」ものだけではない、本気でぶつかり合うことが多々あるけれど、この国の大人たちを信じることができる。

相変わらず、周りの人々の「恋愛話」や「家族の話」に、全くついていけないし、ついていこうとも思っていないけれど、人を愛することができる人、恋や幸せの多様性を理解する人は、素敵だと思う。

創造の場所であるカフェ代のサポートを頂けると嬉しいです! 旅先で出会った料理、カフェ、空間、建築、熱帯植物を紹介していきます。 感性=知識×経験 மிக்க நன்றி