
中川多理 Favorite Journal/『ゴダールの悪魔』尾崎まゆみ/書肆侃侃房
Passageに黒い背の奇麗な歌集をみつけて、すらりと抜いてみる。
『ゴダールの悪魔』尾崎まゆみ/書肆侃侃房。
中川多理は展覧会が近い。11月末から元映画館で展示がある。その関係だろうか、悪魔とか天使とかがタイトルについている本がPassageに何冊も入荷している。
感覚についていけるようにと、何冊か購入した。
今回の、展覧会のために整えている感覚は、身体、人形、人形の内部/空、肋骨…。
無意識に歌を抜き書きすると、なんとなく展覧会に関連するものになった。
地下鉄へ螺旋階段おりてゆく深いふかい記憶のなかへ
指先は雛のこころのうらがはをなぞりつつはなびらのかたちに
白い意思うちがはに秘めてゐるらしい骨の毀れた白き石踏む
輪郭の線を引かれたうちがはのさらにふかくに琥珀の虫が
月のごとき乳房を持つ観世音つきかげは胎内を照らせり
なめらかな皮膚をひらいてうちがはの花を差しだす三岸節子は
たましひはたとえへば真珠うちがはの痛い心がつくる皮膜の
母の骨しらしらひかる体幹を鍛へてみたい気持ちと出会ふ
まだ温い伯母の骨壷抱く腕に母の血潮がふいに目覚めて
大切なものは見えない手を繋ぐ少女のほそき骨のうちがは
風切羽根見せない鳩の歩みきてあれは私の父の伝言
肉の声たましひの聲とぢこめる肉体もまた実りであれば
父のゐた月日の嵩をとぢこめてぼうたんの蕾やはく膨らむ
わたくしのからだと人の存在をなぞりつつ濃密な水の香
尾崎まゆみの歌には、身体の内側を――あるいは内なる感覚を描いているものが多い。そして全体としていえば、尾崎まゆみの歌は、身体感覚に充ちている。身体感覚を使って[私]が歌う短歌だ。
自分に分かる感覚で、歌を想像する。
ダンスにはモダンとコンテンポラリーというジャンルがある
近代と現代という時代の違いを名前にしているのだが、それよりも大きな違いは、ダンスに於ける[私]のあり様/たてる位置の違いだ。
端折って謂えば、モダンは[私]が踊る。踊りたいものがすべてを私の中に入れて、私が踊る。私の身体にないものも、いったん私の身体に入れ、こなして、肉化してから私のものとして踊る。
もちろんとりいれたものは、身体の中で、若干の異和感になる。その異和感も擦れもまた表現になる。
このモダンを演劇の演技で云えば、役者が役に[なる]という時に、たとえば…幸四郎(元白鸚)がマクベスを演じるときに、幸四郎は24時間マクベスになって舞台のあがる。カーテンコールでも手から血を滴らせている。(僕にはそう見える)にこりともしない。
息子の染五郎(元幸四郎)が笑いながらインタビューで語っていたことがある。家でもマクベスのまま過ごしていると。
役者論を読むと、山崎努も台詞を入れながら役になっていく。四六時中だ。
尾崎まゆみの[私]の身体には、父や母や、塚本邦雄や…その歌がいる。
しかしながら、父母とは、敢えて身体に溶かしきらない形で、共存させている。元のあり様をできるだけ保って内側に置いている。そこで生きている。
その尾崎まゆみの内感覚が、凄く新鮮に感じたし、自分が体験してきたジャンルにはないものだった。モダンの[私]も演技の[なる]も、どちらかと云えば、尾崎まゆみが師である塚本邦雄やその歌を取り込んだ状態には似ている。歌に直接関係していないものをうちがわに置いておくその感覚は、凄く分かりたいものつかいたいものになる。自分にとって。
厳密に云えば、取り入れたものと、尾崎まゆみの私は、並列にいるように見える。完全に溶け込んでいない/溶け込ませていない。そこを31字で折りあいつける。つけているというような強引さをまったく感じさせないと。
あ、裡に棲んでいるのね…と、納得する。歌のうまさ、感覚の良さだろう。
さて。
骨を詠む作品も目について…
尾崎の詠む骨は、観念的でなく、確かに死と列なってもいるが、むしろオブジェ的であり。骨は生きているようでもあり、そんな骨は自分には魅力的に映る。
母の骨しらしらひかる体幹を鍛へてみたい気持ちと出会ふ
暗闇をにぎる形にみどりごは泣く胸骨をぐつとひらいて
深海の鰈の骨はきれいだと身を毟るしろい指の艶めき
美しい手の壊れかた人間の関節に丸い骨は選ばれ
最後にあげた
美しい手の壊れかた人間の関節に丸い骨は選ばれ
自分には少しつかめない感覚だが、どんな感じなのか、自註してきただきたい気持ちになる。
自分の方は、若い頃に、笠井叡さんが伝え教えてくれたことを思いだす。
「天使館の床に強く脚を踏んだときに、あ、骨折するかなという感覚があるときがある、その時に、できるだけ骨折を軽くしようと躊躇すると、奇麗に骨折しない。それはダンサーとして恥ずかしい。ダンサーとして躊躇は恥ずかしいと。骨が危ないと思ったらより強く踏む。そうすると躊躇のない骨折になる。自分はそちらを選ぶ。というようなことを言っていた。そしてそういう潔い足の骨折をしたと。
笠井さんに骨折の話を聞いたのは、二十歳の頃、それから六、七年たって、折田克子の復帰舞台を演出したことがあった。しなやかな足さばきをする人が、稽古中に、これ見よがしといったら大袈裟だけれども、そうして床を強く音立てて踏んでいることがあった。僕が訝しげな顔をしていると、「強く踏むと骨折かもしれないから…骨と鍵の間の筋肉に刺激を与えておかないとね…」というようなことを云った。「今回は、三回公演だから…骨折したその回は、最後までどうにかできるけど、次の舞台がたてなくなることがあるからね…」と笑っていた。骨折しても踊れるんですか?と聞くと、「骨折したその舞台はね。勢いと気持ちで…実際、何回かあるのよ…。」と笑っていた。(昔、海老原というボクサーがいたが、(ポケモンのエビワラーのモデルね)パンチが強くで自分のパンチで拳が骨折した。)
ダンサーの身体感覚は、側にいても究極分からない。(当たり前だ!)
歌人の身体を使う[私]表現の妙と一緒で、これは当人しか分からない、個性であるように思う。側にいても分からないような作品を鑑賞すると、気持ちが高揚するのは、ある意味、当然のことだ。
歌にもダンサーのように、分からない感覚がたくさんあって、(歌の未知度のほうが自分には深い)…だけれども、あるということが実感できたのは、嬉しいことだ。
自分の身体感覚や経験に照らさないと、まだまだ歌には寄っていけないが、この歌集に何かきっかけが生まれたような気がする。
『ゴダールの悪魔』には、好きな歌はまだまだある。その歌に自分が入っていけるように自分がなれることを願っている。
猫の歌、色の歌、天使のはしごの歌…。もっともっと…。ある。