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【3分で学べる偉人の名言】 「求めよ さらば与えられん」の理解に苦しむ話

求めよ さらば与えられん

新約聖書 マタイ伝


本日はとても有名なイエス・キリストの言葉。

大変有名な言葉ではあるが、実は私、この言葉の有り難みが理解出来ないんのである・・・。

そもそもキリスト教徒では無いので、それも当たり前のことかもしれ無いのだが、

「求めたモノが手に入るのなら、宗教なんて必要なくない?」

と、穿った考え方をしてしまうのである。

ちなみに、この言葉の意味を調べると、「与えられるのを待つのではなく、積極的に自分から求め、努力する姿勢が大切である」という意味であると解説されているページがほとんどだった。

確かに積極的な姿勢で生きることに異論はなく、そのことに関しては心から賛同している。

その一方で、言葉通りに希望を持ち、その希望が「打ち砕かれた人」たちは、哲学者ニーチェが言うところの「ルサンチマン」となってしまうのではないか。
そして「貧しき者こそ幸いなり」という、これもまたキリストの言葉に慰められ、行動することを辞める人(宗教の奴隷)を生んでしまうのではないかとも思うのである。

嫁にこの話をしても、「どうでもいい」という顔を前面に出しながらつまらなそうにしているので、おそらく多くの人にとってはどうでもいい話なのだと思う。

別に、この言葉が腹落ちしなくても、私の人生には何の影響もない。
ただ、あまりにも有名な言葉のため、自分だけ「良い言葉だなぁ」と思えないのは寂しいのだ!

そうしていると、偶然入手した渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」を読んでいたところ、今までにない解釈でこの言葉を紹介されているのを発見した。

「求めなさい。そうすれば与えられる」
自分の欲望にばかり振り回されてはいけない。
自分がしてほしいことを、人に与えなさい。
 

 出典 『置かれた場所で咲きなさい

これを読んだ時、「求めなければ、神様から与えてもらえませんよ!」という既存の解釈から、「求めなければ、人に与えることができませんよ」という、「与える」という言葉のベクトルが違うことに気が付き、衝撃を受けた。

そういえば、母親からよく「人にしてもらいたいことを人にしてあげんさい。人からされたく無いことを人にしたらいけん。(広島弁)」と言ってよく聞かされたものだが、この本に書かれている解釈も同じような意味だと思い、とてもすんなりと納得できて母親が急に聖母のように見えてきたのである。

おそらくこの解釈は一般的では無く、渡辺和子さんのオリジナルな解釈なのでバリバリのキリスト教徒の人たちからすると「いや、それは違うでしょ!」とツッコミが入る可能性が高い。
(※原文を翻訳しても、このような意味合いにはならなかったから。)

だが、私にとってはこの解釈が一番しっくりきたのと、別にキリスト教徒でもないので、この解釈で良いかなと思っている。

とはいえ、いきなり「人にされたいこと」を考えてみたところで、「笑顔で接してほしい」ぐらいしか思い浮かばない、想像力の乏しい自分なのである。

とはいえ、仏教でも「笑顔でいることは誰にでもできる功徳(善行・お布施)である」という言葉もあるくらいだから、笑顔でいることは大切なことなのだと思う。

今日も自分の笑顔で世界を平和にしてこようかしら。


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