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愛情と親切の思索メモ

「御社の考える"やさしさ"とはなんですか?」

採用面談をしていると、上の質問をしばしば受ける。

私が勤める株式会社cotreeは、「やさしさでつながる社会をつくる」をVisionに掲げているので、当然、気になるのだろう。

"やさしさ"を定義するのは難しい。cotreeのVisionやValueを考えるミーティングの中でも散々議論されたが、明確に定義するには至らなかった。

メンバーの中にも、自分の考えるやさしさを表明する記事を書いている人がいるが、それぞれどの側面に力点を置くかは違うように思える。ちなみに、私が個人的に推しなのは以下の2記事である。

"愛"よりも"親切"であれ

私にも、私なりの"やさしさ"の定義があるわけだが、"やさしさ"について考えるときにいつも思い浮かぶのは、精神科医の斎藤環氏の「愛より親切」という言葉である。

色々考えさせられる言葉だが、ものすごくザックリと、私の感じるところを書き表すならば、「愛は、相手の将来に責任を負ってしまうので、しばしば支配的-義務的になる。そうではなく、"別に義務づけられているわけではないが、相手のためにやってあげたほうがよさそうなことを見つけたので、自主的にやってみた"(=親切)、くらいの心意気で関われ」ということだと思う ※1。

斎藤環氏は引きこもりの専門家で、引きこもりの当事者との関わり方の鉄則として、上記の言葉を掲げている。島根県ひきこもり支援センターの資料がとても分かりやすかったので貼り付けてみる。

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やや穿った読み方かもしれないが、私は、「誠実な態度で、一貫性を持って、親切を継続すること」が大事だ、というメッセージとして受け取っている。

行き過ぎた愛情や、時と場合によって変わる態度、ちぐはぐなメッセージは、しばしば相手の自主性や自発性を奪う。相手を対等なひとりの人間とみなし、自分がどのような考えを持つどのような人間なのかを伝え、その態度や親切さを一貫して保ち続けていることが、相手に考える余裕を与え、自発的に行動する勇気を与えるのではないか、と個人的には思っている。

"愛"が必要なこともある

とはいえ、親切よりも愛が必要なときもある。

斎藤環氏の言葉によれば、引きこもりの当事者と親の関係では、すでに成人したいい大人に対して、親が"愛"だけで問題を乗り切ろうとした時に、暴力などの問題につながりやすくなるそうだ。

まだ自分で食事が取れない赤ん坊に対して、親がどこまで「対等さ」を求めてもよいのか、というのは議論があるだろう。(個人的な所感だが、最近のリベラリズム批判の多くは、このような「対等さ」の持つ暴力性に当てられている用に感じる。)

"愛"と"親切"はどちらも必要だし、使い分けられなければならないのだと思う。そして、それは、他者に関心を持ち、その他者の置かれた状況を把握し、他者の置かれた状況によって関わりを構築し直す、という営みの中で使い分けられるのだろう ※2。

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※1 見返りを求めない、という言葉で表されるものと近いかもしれない。

※2 いわゆる"ケアの倫理"の話を想定して書いた。

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