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「フェミニズムの政治学」と「居るのはつらいよ」とcotree.jpの思索メモ

2020/1/30(木)に、半休を取って、この勉強会に参加してきた。

書籍「フェミニズムの政治学」は、去年に私が読んだ中で、もっとも感銘を受けた本であった。去年のゴールデンウィーク中、この本を持って自宅近くのカフェに通い、ボールペンで線を引きながらじっくり読み進めたのを覚えている。

「フェミニズムの政治学」は、「リベラリズム」を主な論敵に据え、ケアの倫理やフェミニズムの理論を参照しながら、リベラリズムを批判していく。

「フェミニズムの政治学」の議論の中で、私が最も刺激を受けたのは、「主体」に関する議論である。

フェミニズムは、リベラリズムと同じように、個人の平等な自由な社会を構想するさいに、リベラリズムがその起点としていた「主体」をめぐって、意見を異にするのだ(P122)

ざっくりといえば、「人間をどのような存在として捉えるか」という観点において、リベラリズムとフェミニズムはたもとを分かつ。その「違い」の詳細な描写が、私にとってはとても納得のいくもので、当時の私の業務上の悩みを整理するための土台となってくれた。

突然だが、カウンセリングの話に移る。

弊社(株式会社cotree)はオンラインでカウンセリングを提供する企業であり、100名近いカウンセラーに登録していただいている。

カウンセラーには様々な立場の方がおり、主には精神分析を得意とするカウンセラーもいれば、主に認知行動療法を得意とするカウンセラーもいるし、人間性心理学系のカウンセラーもいる。キャリアカウンセラーや、精神保健福祉士の方もいる。さらには、最近はコーチングも行っているので、コーチの方の登録もある。

精神分析、認知行動療法、人間性心理学は、カウンセリングの中でも異なる一派であり、それぞれに異なる理論的基盤を有する(らしい)。そうなると、依拠する理論が異なると何が違うのか、というのが気になるわけだが、ものの本をひくと、以下のような著述が見つかる。

理論とはクライエントを理解する視点を示すものであり、クライエントのどの側面に焦点をあてているのかによって考え方は違ってくる

玉瀬耕治「カウンセリングの技法を学ぶ」

すなわち、参照するカウンセリング理論によって、「人間をどのような存在として(どの側面を強調して)理解するか」が異なるというわけだ。この主張は、玉瀬先生だけでなく、他の本でも目にすることができる。この論点については、私の過去のnoteでも触れているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。

(もちろん、カウンセラー個人の中にも多様な考え方があり、場合によって使いわけるわけだが、)カウンセラーによって、「人間をどのような存在として捉えるか」が異なる。そして、「人間をどのような存在として捉えるか」が異なると、そこから導かれる(共生の)倫理観も異なることになる。

私たちのサービス「オンラインカウンセリングのcotree」は、登録している複数のカウンセラーから、どのカウンセラーのカウンセリングを受けるかを選ぶことができる。さらに言えば、「マッチング診断」というシステムを提供しており、あなたにおすすめのカウンセラーを提示してもいる。

だとすれば、極端に言えば、私たちが作っているサービスは、(意図的・非意図的は置いておくとしても)、お客さんに対して、複数の選択肢の中から「倫理観を選択する」という体験を提供している(してしまっている)サービスなのではないか。

これは単なる思弁的な問いではない。極めて実践的な、今まさに我々が悩まされている問題でもある。

例えば、書籍「コーチングのすべて」を読むと、コーアクティブ・コーチングの土台として、以下の4点が挙げられる。

クライアントは本来、創造的であり、資源や人的資源に富み、欠けるところのない存在である
②コーアクティブ・コーチングは、クライアントの人生全体を救う。
③主題はクライアントからもたらされる。
④コーチングの対人関係は計画性のある協同関係である。

「コーチングのすべて」

一方で、「ケアの倫理」の側を見てみよう。「ケア」の専門家といえば看護師が思い浮かぶ。看護師の実践を分析した看護理論家のベナーは、人間の持つvulnerability(弱さ、傷つきやすさ)に注目し、ケアの実践は、自分と異なる他者であっても、自分と共通のvulnerabilityを持っているという前提に成り立っていると主張する。

たとえ「文化」が異なり、背景的意味が異なっている場合であっても、看護師が患者の安楽と自分の安楽とを結びつけて考えることができ、また実際に患者の安楽が自分にも安楽をもたらすのは、ベナーによれば、「すべての人間が、身体的存在であるがゆえに傷つきやすく、苦痛を経験する有限な存在であり、誰もが悲劇に見舞われることがあるという共通の人間性を分かち持っている」からである

榊原哲也:クリティカルケアへの現象学的アプローチ 日本クリティカルケア看護学会誌

前者はどちらかといえば、人間の強さ、自立的な側面に光を当てるのに対し、後者はどちらかといえば、人間の脆弱さ、依存的な側面に光を当てる。

この二つの見方は、完全に矛盾するというわけではない※1が、臨床実践の現場においては、かなり食い違う立場だろうと私は考える。そして同時に、どちらも、対人支援における人間の捉え方として真理を捉えているだろう、と私は思う。つまり、人間はどちらの側面も持っており、どちらの面に光を当てることもできる。どちらも対人支援として成立する態度であり、どちらも人々を元気づけることができるものである。

しかし、我々は、この二つの異なる態度を持つ対人支援者とのセッションを、いつ、誰に、どのようにオススメし、どのように説明し、理解してもらい、どちらを選んでもらうべきなのだろうか? それはどこまでWebサイトのユーザ側が選ぶべきで、どこまで支援者側が説明したり、口を出したりすべきことなのだろうか?

この読書会の前日、2020/01/29(水)は、友達の東畑開人先生が、書籍「居るのはつらいよ」大佛次郎論壇賞を受賞した式の日であった。(僭越ながら、私も授賞式にお招きいただいた。)

「セラピー」と対比しつつ、「ケア」の重要性を指摘した本書であるが、ケアとセラピーもまた、異なる倫理観によって成される行為であり、実際の臨床の現場は、いわばこの二つの「ミックス」によって成されている、というのが本書の主張だ。

実際、この主張は弊社サービスの実態を言い当てている。cotreeのサイトを訪ねてくれる方の多くは、単に「セラピーだけ」を望んでいるわけではなく、様々なニーズがごった煮になった状態でくる。ユーザはケアとセラピーの両方のニーズを持っており、我々はその両方を提供することが求められるし、実際している。極端な言い方をすれば、「セラピー」「ケア」という区分が重要なのは支援者側にとってだけであって、ユーザとっては関係のない区分であり、「ニーズに応える」という基本理念からすれば、どちらも打ち返せるのが理想だろう。

そんなわけで、セラピーを考える上で、ケアは避けて通れない。

我々は、Webサイトのユーザに対して、様々な立場を持つ支援者との具体的な関係を提供する立場にいる ※2。我々のサービスは、コーチング的でもあり、セラピー的であり、ケア的でもある。我々が作成したプラットフォームの上には、異なる人間観に基づく異なる関係性が、それぞれの配分で、多種多様に存在している。

我々がやっていることは何なのだろうか。その重さ、難しさを考えていくと、なんだか溺れるような気持ちになる。この問いの答えが知りたくて、いろいろな本を読み、目についた勉強会に参加してみるが、この問いをめぐる社会的な背景のあまりの複雑さに、途方にくれる思いがする。

わからない。なにもわからない。だが考え続けるしかないのだ。

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※1 人間はvulnerabilityを持ち、そして、それゆえに完全なのだ、という解釈は成立するし、そのような立場を取る人もいる

※2 「フェミニズムの政治学」の以下の著述を念頭においた。
・ケアという関係性の中には「すべてのひとが含まれていなければならないし、誰かが具体的な関係性を取り結べない状態で放置されたままにあることを避けなければならない
・ケア関係は個人の人格・尊厳にも関わる承認がなされる関係性であるがゆえに、私的領域の自由に任せておくわけにはいかない

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