傷つけ合う人類に絶望した人と、まだ絶望していない人への追記

前回書いた、以下の記事が、一週間で4000Viewを超えたようだ。noteからも「先週もっとも多く読まれた記事の一つ」の通知をいただいた。

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こんなに「ペニス」という単語が頻出する記事を出してもよいものかと悩んで出した記事だった(実際、タイトルに含まれていた分はできるだけ公開前に削ったりしてた)が、概ね好意的に受け止めていただいたようで、筆者としてはとても安心している。似たような活動を行っている知り合い・友人達からも「良記事だった」と反応をもらえた。たぶん、経験がない人にも分かりやすい記事になったのが評価されたのだと思う。

前回の記事では、自助コミュニティがしばしば陥る矛盾を伝えられたと思う。その一方で、矛盾への対処方法については、いささか単純化しすぎたところがあったかもしれない。一つの記事で入り込みすぎるのもいかがなものかと思い(そして記事を書く気力が続かなかったので)削った部分もある。

何より、友人たちから良い指摘をいくつももらったので、せっかくなら紹介したいと思った。本記事では、前回の記事を読んでくれた方向けに、前回の議論で議論されていない点や、残る問題点を整理したい。

マイノリティの"傷つき"とマジョリティの"傷つき"を同列に扱ってはならない

メンズリブ団体主催の西井さんのツイート。

「マジョリティ側だって、傷ついているのだから!」という主張が、マイノリティの運動を封じ込めるために使われてきた事例は、歴史上多々ある。

極めて古典的な正義論の議論ではあるが、"最大多数の最大幸福"を善とするシンプルな功利主義の立場には、マジョリティ側が有利になり、マイノリティ側に負担がかかる制度が選択されるという問題点がある。少数者の犠牲だ。

ロールズなどの正義論が扱ってきたのは、まさにこの問題だろう。ロールズの格差原理が述べるように、社会的、経済的不平等が許されるのは、 もっとも恵まれていない人に最大限の恩恵が与えられる場合のみであって、「多数派の利益のために、少数者が犠牲になってはならない」。

この原則に則ると、男性側に有利な制度が選択され続けてきた結果として、ある女性が傷ついているとすると、その相手である男性側も傷ついているからといって、問題の解消のための努力の負担を、女性側と男性側に平等に求めることは正しいとは言えないかもしれない。

とはいえ、男性を単に「社会的に有利な側」と見なすことにも問題があるだろう。男性一般というカテゴリーで見れば有利な側にいるのかもしれないが、ひとりの個人としては今は十分につらいわけで、そんなデカいカテゴリーとか属性で私を見ないでくれ!ということになる。マイノリティ側を単に属性で判断することに様々な問題があるように、マジョリティ側を単に属性で判断することにも様々な問題がある。

ぬいぐるみに徹することの価値

京都大学で社会学をやってる友人からのコメント。(他にも色々活動してるけど説明がややこしすぎるので省く)

弊社はオンラインカウンセリングサービスを提供している会社であるが、カウンセリングもこのような「安全地帯」としての役割を持つことがよくある(もちろん、他の役割もある)。カウンセラーは、傾聴の技術など、人の表現を受け止めるための訓練を受けてきている。もちろん人間と人間の関わりなので、一切傷つかないとは言えないわけだが、相手の自己表現を受け止める姿勢とスキルを持っているのがカウンセラーだと思う。

また、「カウンセラーに自分のことを話しているうちに、家族や知り合いにも自分の弱いところを開示できるようになってきました!」という感謝の声をいただくことも、頻繁にある。自己開示を受け止めてもらう体験をすると、他の人にも言えるようになったりするものだ。

カウンセラーを"ぬいぐるみ"と呼ぶことには抵抗がある(多分カウンセラーの皆様に怒られると思う)が、安全に"人間と人間の関わり"ができる場があることは、とても大事なことだと思う。

「適切な表現を考えられる(考えようとする)」こと自体、かなり環境に恵まれているのでは?

メンタルヘルス関連の自助グループの運営をやっている友人からのコメント。

前回の記事で、「僕らはこのショッキングな"ペニス"を、二人の人間関係の間に、(もしくは、みんなが共にいるこの空間に)、マイルドに置くことができるだろうか?」という問いを立てたわけだが、この問いに関して、様々な価値観の違いを踏まえて、新しい表現の仕方を模索する、ということ自体が、かなり難易度の高い営みである。

今回、この記事を書いていても実感した。私がこのような記事を書いた時に、記事の良い部分を褒めつつ、議論されていない部分や弱い部分を指摘してくれる友人や知り合いがいる。私は、このようなサイクルを繰り返しながら様々な価値観に触れ、知識を溜めてきたのだが、このような議論をできる環境というのは限られているだろう。時間もかかるし、そもそも、多くの人はやりたいとすら思わないかもしれない(「そんなに考えてばかりで生きるの大変そうだね」と言われることもよくある)。

また、「受け入れられやすい表現」を善とする発想は、それこそ、生まれ持った身体性に左右されやすいだろう。私は学生時代から演劇をやっていたが、その人ができる表現の種類や幅は、その人の生来のキャラクター、見た目、動き方や話し方のクセなどに依存する。魅力的な身体性を持つ人はそれだけで有利になる・・・という結果になることもあると思う。

おわりに

締切が迫ってきたので、締めに入る。(日付が変わる前に出したい)

仕事をしていてもつくづく思うが、メンタルヘルス領域や精神福祉領域にいると、答えらしい答えがない課題にしばしば直面する。

「全てがイヤ」という気持ちになることもたまにあるが、それでも、今行われている様々な活動には、先人たちの知恵が詰まっている。実際にそれらの活動で救われてきた人に出会うこともできる。私自身、助けられてきた。

「絶望する」という言葉を、私はポジティブに捉えている。「安心して絶望できる人生」というタイトルの本があるが、「絶望する」ということは、自分の限界、技術の限界、その他のさまざまな限界に真摯に向き合えたということでもあると思う。

"限界"はあってもよいのだ。なぜなら、事実として、限界はあるから。

様々な限界を受け入れつつ、議論を続けながら、今より良い方向を模索することが大事だと思っている。

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